住んでいればいつかは都。

イースターホリデーに入りました。

ノートルダム寺院の火災でパリからのフライトが遅延して、夜中に帰宅した友達から深夜に電話。ひどい火災でまだ被害の全貌はおろか、未だに鎮火していないようで…そんな話をしました。私の初めての海外旅行はパリ。ノートルダムにも行きました。ステンドグラスにいたく感動したのを覚えています。悲しいニュースで休暇が始まりました。

 

私はと言うと、休暇の終わりにその電話相手の友達のところへ遊びに行きます。

またドイツ。あれ先週もドイツにいたよね。笑

 

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15歳の自立。

私は普段、朝9時には家を出て、帰宅は0時すぎ。

前回の記事でお察し頂けるように、単位を馬鹿みたいに取っているということは、授業は朝10時から夜は20時までなんてザラで、その前後に制作を進めていたりします。制作込みのワークショップだと(今まさに)完全に缶詰です。ちなみにこれは私のスタジオでは標準で、3年目ぐらいまではこんなスケジュールです。

 

今の家に引っ越す前に、ご家族には帰宅が遅いことは伝えていました。

もう15歳とはいえ、お子さんが居る家庭なので、事前に断る必要があると思ったのですが、そこはパパが芸大の先生なので「君たちが忙しいのはよく知ってるよ〜」とオッケーを貰って同居することに。

 

今週も相変わらず日付が過ぎてから帰宅していたのですが、あれ?なんかパパの気配がないなぁと思っていました。生活時間が大幅にズレているので、普段ほとんど干渉することもされることもないのですが、いよいよ「もしかして娘さん一人なのか?」と気になり本人に聞いてみました。

 

話を聞くと月曜にパパがバイクで事故にあって、簡単な手術をすることになったと言うではないか。

大事件じゃないか!

 

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暗い面で人の心を怯えさせない。

相変わらず風邪をこじらせています。よっぽど酷い見た目なのか、はたまた長引いているからか。朝からクリーニングのお姉さんがのど飴をくれて、ランチの後に友達が特製のジンジャーチャイをいれてくれました。

「kiki、もしあなたがよければ、私が特製のジンジャーチャイを作ってあげる。それはね、喉がすっきりして、あなたの鼻づまりもよくなって、それから…」と超真剣な顔で私に勧めてくる友達の顔を見て、笑ってしまいました。「なんか神のお告げみたいだよ。もちろんお願いしたいけど」って返事したら、本人も「確かに!それか変な勧誘みたいだったよね」とさらに二人で爆笑しました。「今だけタダ!」のうたい文句で一緒にキッチンへ。

 

ジンジャーチャイめっちゃ効いた!作り方も習ったので、今日は早めにアトリエを出て、スーパーで材料を買って家でもチャレンジしようと思います。

 

風邪を引いても誰も薬を勧めてこないです。ただとにかくお茶を勧められます。風邪を引いたら、お茶飲んで治すってヨーロピアンの共通認識なのだろうか?レシピはそれぞれ違うのですが、何かしらフルーツや薬草を煮出して作る感じで行程は似ているし、不思議と効果があるので素直に従っています。ちなみにカナダではじゃんじゃん薬を勧められました。うたい文句はBio。Bioの薬は未だに謎ですが、それはそれで効きました。

 

さて、ぜぇぜぇしながらも休まず通ったおかげで、3週間かかっている3mのキャンバスはそろそろ細かいディティールに入り始めました。ワークショップで取り組んでいる作品なので、将来どこかでお披露目予定はありませんが、1mは優に超える筆でキャバスの上に立って絵を描くのは初めて。面白いです。新しいボキャブラリーが増えるので、好きなワークショップ。が、もうすでに3回成績をもらっているので、オフィシャルにはあと1回しか取れません。

 

そう、私は今頃になってちょっとしたことに気がつきました。

あれ、単位取りすぎじゃない??

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ニンニクほうれん草で風邪も鬱も撃退。

先週の金曜日の夜から熱を出して、ウィーン滞在2年目、初めて週末を丸っと病床に伏しました。普段が健康体な分、体が薬に慣れていなくて、バファリン一錠が強烈に効いてしまう。薬を諦めて、大人しくひたすら寝て、水飲んでを繰り返す。土曜日に関しては20時間寝まくって、電話の着信を起き抜けに見て、あ〜1時間前に電話があったのか〜と思ったら1日前でした。でもその甲斐あって、鼻がひたすら詰まって咳が止まらない以外、歩けるようになったので授業には出てきました。タフさ半端ない。笑

 

鼻が詰まりまくって、ちょいフラフラな私。ランチにコニャックくんがオススメしてくれたもの。

Bärlauchってご存知ですか?

(相変わらず写真を撮り忘れたのでwikiから拝借します)

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Illustration aus Flora Batava, Volume 11

 

日本名でラムソンという名前だそうで、ネギ属。ドイツ名でKnoblauchspinat(ニンニクほうれん草)とか色々な異名がある様子ですが、そのままニンニクみたいな匂いで、ニラみたいな味で、緑の葉っぱで、ほうれん草みたいな風貌です。3月から4月に採れるもので、春の風物的なものです。とは言ってもホワイトアスパラほどじゃありません(多分)。オーストリアのホワイトアスパラ推しは異常だと思う(褒めてる)。

 

「体にいいからこれを食べるんだ!ママお手製!」

ラムソンとニンニクのディップソースを私のサラダに混入させるコニャックくん。

その緑の瓶見覚えがあるよ…としばし考えて思い出しました。そういえば、去年もこの時期にコニャックくんが春の味覚だと説明してくれました。でも去年は全然"Bärlauch"が聞き取れなくて、何のことか理解できませんでした。笑

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年の差リレーションシップ。

私は年齢が離れているクラスメイトと生活する上で自分に意識して課していることが一つだけある。それは経験を振りかざすようなことだけは絶対にしないこと。

 

不思議なもので、私自身は自分より経験豊富な人の話を聞くのが好きだけれど、自分はそういうのは出来ない。日本にいた時も今も60代くらいの人と仲良くなりがちで、インターネットのない時代から今の世の中まで生き抜いてきた人の話は、私には宝物のようで楽しい。知らないことを教えてくれるのは面白いし、率直で柔らかいアドバイスもくれるので年上の人と話すのが私にとっては一種のセラピーみたいなものだ。こんな風に自分も柔らかく人生を生きたいと思わせてくれる。ただ甘えたいだけ、というのもあるけど。笑

 

素直でいることや、オープンでいることが私にとってはとても大切。でも残念ながら私は出来た人間ではないので、自分を奢ってしまうところがある。そしてそういう所がもっとも私が私の中で嫌いな所だ。だから、何かを教えたりするのが兎に角苦手で、自分が出来ることを掲示する時間は常に、私偉そうじゃないだろうか、大丈夫だろうかとネガティブな気持ちが支配する。そんなわけで、それが最大のストレスなので、そういうこととは今は関わりたくない。いつかバランスの良い、私の大好きな60代の先輩たちのようになれたら、さりげなく相手に渡せることもあるかもしれない。そうだと良いなぁと言う気持ちはある。

 

さて、話が見えないけれど。

そうは言っても、現実問題。一回り分多く時間を過ごした私は、私のクラスメイトより単純に技術や経験、知識と言う部分で「知っていること」がある。そんなの簡単な算数だ。12年分多く本を読み、人と出会い、移動した。そして日本とデンマークでその教育を受け、日本とカナダで働いてきた。彼らが私と同じ年齢になれば、むしろ私より豊富に多くのことを知っているに違いない。ただ私たちのタイムラインが重なることは永遠にない。

 

「完成」のラインが学生しか経験していない彼らと違う所にあることが多い。

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最初を思い出して

相変わらず気持ちが不安定なまま今週を迎えて、毎朝夜とびーびー独りで泣いては、目の下と鼻の下にクリームを塗る。泣きすぎなので、顔の皮が塩水に耐えられずにヒリヒリしていて、ナンテコッタな顔。それでも大学には毎日行って、授業を受けて、制作をしているのは自分で何が原因でこうなったのかがやっぱりよく分からないから。

つまりは、何から離れて休養を取ったらいいのかわからないので困っていた。

 

さすがにアトリエでどっぴゃーと泣くほどではなくなって、朝晩に一人で部屋で流し切る!みたいな日々だった。それでも火曜日の夜。夜のデッサンの授業からの帰り道に涙がボロボロ。もう疲れた。なんなんだ!という気持ちになって、自暴自棄で「何かしたいことをしよう」と思って帰りにスーパーで普段買わないようなものを値段も見ずに好き放題カゴに入れてみた。返済義務のない奨学金を頂いている身として、自分のお金ではない、支援で生活している身として、どうにも財布の紐は硬くてそれはそれは質素に生活してきた。別にそれが辛いわけでも嫌なわけでもなかったのだけれど、好き放題買ってみたらなんだかすっきりした。でもそれがスーパーの食材ってところが笑える。二千円程度なもんだ。

 

週半ばで、なんだかから元気な私に先生が両肩を掴んで「kiki悩みがあるなら言いなさい。そしてその悩みは大抵解決できるんだからね。疲れてるなら考えすぎちゃダメだ」と力説。おっしゃる通りだけど、バレてるじゃん。

そうもうバレバレ。私は友人たちの中ではなんだかいつも笑っているハッピーな人だと認識されているので、ちょっと元気がないだけで「alles gute? ok?」って聞かれてしまう。今も昔もそうやって周りの人に支えられて生きてきた。

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魔法のかけ方。

家に独りでいると、頭の中で自分がこの窓からジャンプする光景が浮かんできて、ジャンプしたらどのくらい痛いんだろうかまで考えて、そんなことに囚われている自分が怖くなって家を出た。なんの理由もなく窓から飛び降りるなんて正気の沙汰じゃない。どこで私は壊れてしまったのだろうか。

 

今までどんなに辛い問題があっても、そのことと向き合って自分で解決方法を考えることが出来た。誰かに相談することも出来た。でも今はそれが出来ない。だって問題がなんなのかが自分でよくわからない。

 

とにかく飛び降りるなんて冗談でも考えちゃダメだし、でも今は自分が一番信用ならないから人のいるところに行こうと思ってアトリエで課題をすることにした。アトリエには誰もいなかったけれど、でも人の往来があって、自分の家じゃないだけで一人じゃない安心感があった。自分の作業台の前に座ったら、手を動かしたら少しは落ち着くだろう。いつもそうだ。でもそれはほんの1時間程度で終わってしまって、気付くと手は動いているのに涙が流れて、しまいには嗚咽。声が出るように泣くと苦しい、これも今週何回目か。これが永遠に続いたらどうしよう。そんなの耐えられる気がしない。誰にも好きになってもらえなくなってしまう。どうしようとそればかりが押し寄せた。

 

音楽をヘッドフォンで流して作業していたので誰かが来たのに気がつけなかった。友達がただ私が音楽を聞きながら作業していると思ってそっと肩に手を置いた。「kiki〜」と話しかけられて、振り返った私の状態を見てぎょっとした。そりゃそうだ。こんな昼下がりに、独りでアトリエでこんなの気が触れたとしか思われない。もう限界で、口から「家に独りでいると窓からジャンプする自分が頭の中を駆け巡って怖くてアトリエに来た」と言ってしまった。彼女は驚くでもなく、真剣に私の嗚咽交じりのその一言を聞いて膝をついて私の腰に抱きつき、私が落ち着くのを待ってくれた。そして、何があったのかと、でも何もないという私の言葉を丁寧に聞いてくれた。

 

私は今まで自殺する人は、何か明確な理由があったのだろうと勝手に想像していた。生きている人間からすれば、死ぬくらいならまだ出来ることがあるだろうにと思ったこともあった。日本で一時期自殺した子供に対して「死んだら負けだ」という発言が議論を呼んでいたけれど、どれもこれも、そういう状態の人には届かないだろうと思う。響かないだろうと思う。そういうことと向き合える精神状態が残っているなら、そもそも誰かに相談したり助けを求めたりするだろうし、そういう状態の先があることを、私は知らなかった。そしてその境界線は目に見えなくて、どこで自分がそれを渡ったのかわからない。ただ、その線を超えたら、もう自分で「何が」そうさせているのか考えるのが難しくなる。だから誰かに相談する時期を逃してしまう。そして多くの人がそれを知らない。知らない方が健康だ。でも健康な人のアドバイスが届く範囲には限界がある。

 

こんなことをこのブログに書けば、もうここに楽しことを書きづらくなるし、私の顔を知っている人も読んでいる可能性があるから、こんなこと晒す必要ないと思っていた。私は気が触れたおかしい人だと思われて、もう友達でいてくれない人もいるだろう。何より辛いことを吐き出したつもりが、そんなこともあるよね〜っと軽く流されれば、ただもう一度傷つくだけだ。そして人は何かそういう重いものを持っている人と距離を置こうという本能を兼ね備えているように思う。私は高校生の頃にパニック障害を発症して高校の3年間が大変だった。独りで大変だった。肉親を含めて、私のその状態に真剣に向き合ってくれた人はいなかった。明るい顔で笑っている私を好いてくれても、泣いている私も苦しくなった私も、誰も触ろうとはしなかった。その時も普通はこんなことにはならないんだから、こんなことになった私は間違ってるんだし、だから周りがそういう私にだけ冷たいのは当たり前だと思っていた。何より何か相談する内容があるならまだしも、それすらないのだから、相手だってどうしたらいいかわからない。

 

でも私は専門学校を皆勤賞で卒業した。

高校3年になって、未だに満員電車に乗れずに遅刻してくる、早退する私の状態を唯一知っていた保健室の先生が私に魔法をかけたのだ。ある日、どうにもならなくて早退しようとする私に先生が「私も同じ方向に用事があって行くから一緒に行こう」と言ってくれた。そして一緒に電車に乗った時のこと「何年も前に卒業した生徒であなたと同じような子がいたんだけど、その子は専門学校に行って、皆勤賞だったんだよ。好きなことなら出来るから、大丈夫だよ」と話してくれた。

 

大人になって思えば、先生のあの時の話も、同じ方向に用事があると言っていたのももしかしたら本当の話じゃなかったかもしれない。でも不思議と当時の私は盲目的にその言葉を信じて、そうかじゃあ私にもやりたい事があるから、大丈夫なんだと思えた。そしてその通りになった。保健室の先生は私に一度も「何が辛いのか」とは聞かなかった。私が保健室で寝ていても、何かを諭したり説教したりもしない人だった。よくラベンダーの香りのするアイマスクを貸してくれて、これをすると眠れなくても疲れが取れるんだよ、すごいでしょと笑っていた。だから先生が唯一話したその話が鮮明に記憶に残っている。ラベンダーの香りを嗅ぐとその笑顔を思い出して、自分が一度は乗り越えられたことも思い出す。先生は魔法のかけ方を知っていた。

 

昨日は友達が夜まで側にいてくれて、後から来た友達が一人じゃないんだから一杯くらい大丈夫だとビールを持ってきた。誰も何も聞かなかった。少しどうでもいい話をして、そして作業に戻った。今週初めてやっと涙が止まった。

 

私は友達と約束した。今度またそのイメージが現れたら、何も考えずに彼女に電話すると。彼女が忙しいかなぁとか、何も考えずに電話して一緒に散歩すると約束した。