6週目終了。来週はプレゼン週。教授との距離感と批評的環境。

まるで定時更新のような日々。

今日もアトリエに行くつもりが、家でスケッチをいろいろ広げ始めたら最後、諦めました。明日はちゃんと朝から行こう。そうしよう。

 

制作はなかなかの行き詰まりを迎えています。

 

金曜日に先生がフラッと通りがかり、ニコニコ笑顔で「自由に〜!すべてここではきみ次第。創作とはそうじゃないか。自由にね〜。なんならそのままプレゼン迎えてもいいんだからさ〜」と言われる。

 

さらに、今のプロジェクトの触り方、というかテーマの捉え方の中で、どうだろう、これ?と戸惑いながらも手をつけ始めたものについても、たまたま教授が通りがかり

「いいじゃない!」と。

 

その一言で、自分が何にビクついていたのかに気がつく。

教授のテイストと遠いところ(と勝手に思い込んでいること)に手を出すこと。

でも面白そう、作りたい、という衝動で手を動していた。今はそれでいいはずなのに、

「評価を気にしていた」自分にハッとさせられました。

 

教授の作る作品が好きで、彼女の人柄も大好きです。

憧れの人の元で勉強するというのは、こういう緊張が付きまとうのだと実感しながら制作しています。人生で初めて「褒められたい」自分に驚いています。

 

だけど、どんなに憧れても私は彼女にはなれない。コピーにはもなれない。

そんなもの誰も望んでない。

さらに言えば、そんな邪念を教授はお見通し。

 

「私は往々にしてリアリスティックな作風だけれど、でもそうじゃないものをいいと思わないわけじゃないわ。あなたがあなたの思考と創作の中で自由になり生まれたものがいいものである、ということを見つめてごらんなさい。リアリストであっても、自由になる瞬間は本当に大事だわ。どちらにしても、いいものはいい。今作ってる、それはいいじゃない!いいものよ!」と。

 

教授からの評価を気にしていることがバレている。笑

 

でも、ふと、今日スーパーの道すがら思いました。

 

この1ヶ月半何を一番気にしていたのか。

 

自分の背景が明らかに周りに比べて特異であること。オリジナルすぎることに、躊躇していました。思いっきり、思うものを作ることにストッパーがある。でも、よく考えたらオリジナルであることほど、今の分野で大事なことはないはずなんだよ。どうしてそんなこと気にしているのか、笑えてきました。

 

新しい文化の中で、気がつかないうちに自分の制作スタイルまでも溶け込ませようとしていたのです。だから人から褒められることを積み重ねることでしか、自分らしさを取り戻せなかったんだと思います。

 

金曜日、いつもの仲良しの友達と中華ランチに行きました。

私がこの1ヶ月肉を食べてない!というと、彼女が「だから行き詰まってるんだ!」と。彼女とは入試からの仲良し。とても優しくて繊細な彼女が大好きです。

 

彼女はドイツの美大に1年別の専攻で在籍していました。ですが、希望していることが学べず、主教授ともあまり相性が良くなく、私と同じ時に試験を受けに来ていました。

いわば、ヨーロッパ芸大のサバイバルを教えてくれる先輩でもあります。

 

ランチをしながら、批評されることについて話していました。

 

私たちのクラスは特殊です。お互いに、人を傷つけるような言葉をよしとしません。コミュニケーションに人一倍気を使っています。そういう雰囲気なのです。彼女もこういう環境は初めてだと言っていました。実際先輩たちもこの環境は、みんなの意識のもとで保たれている、と言っていました。

 

私たちの共通認識で「美大生は我が強い」

アート業界の人は「強い批評性を持っている」

 

実際、彼女のいたドイツの美大では毎週金曜日に批評タイムがもうけられ、学生同士が、今作っている作品について意見を交換するそうです。

「すごいストレートだったよ」と。

 

そしてこれも共通認識として、それは別に悪いことじゃないよね、と。お互い、そういう道は通ったしね、と。ただ、どう吸収するのかを、選別できないと精神的に消化できない。だから強くなるんだよ、美大生は!笑

 

そういう批評性を養うことより、今私たちは違うことを学ぶべきだとういうことなのかもしれない。教授との距離の近さがそれを物語っている気がします。

 

今週、先週の宣言通り1週間アトリエに居た教授。

プレゼンを前に行き詰まりが渦巻くアトリエ。笑

みんなアポイントを取って相談していました。パリでのカンファレンスも私たち向けにクラスで再現してくれ、さらに映画を持ってきてくれたり。夕食時に一緒に席についてお茶をしたり。

 

私は、意味のない、個人的な、衝撃だけを狙ったような毒性のある作風があまり好きではありません。好きではない、というかそういう作品で感動したことがまだありません。「そうしたら人は驚く、身勝手さの定義?大して考えてないのに?」とつい斜めに見てしまいます。衝撃を与える作品を作るのなら、もっと責任持ちなさいよ、と思ってしまいます。芸術家だから、なんの意味もなく、責任感もなく毒だけを投げすてるような作家にはどうも共感できないのです。

 

彼女の作品の中で、そういうものを感じないこと。

それは彼女の人間性からきているのかもしれません。近い距離で触れ合う普通の時間の中で、作家性というのは見えてくるものなのかもしれません。

 

私の1日1日が自分の作品に影響を与えている。

もっと自覚して生活しようと思います。