メリークリスマス!過ぎ去ってしまったけれど、オーストリアは今日も祝日です。
聖ステファノの日(Saint Stephen's Day)、キリスト教の祝日です。
祝日はほとんどキリスト教関連のような気がしています。祝い事のある日なわけだから、そうれはそうか、とも思うのですが。日本の場合は天皇関連か、感謝、促進的な意味合いの日が多いような気がするのです。キリスト教徒では無い私はなかなか祝日を覚えられません。説明されても、聖書をちゃんと読んだことがないので、登場人物が誰なのか全然わかりません。やっぱり一度読むべきか、聖書…。
さて、祝日の話はここまでとして。
クリスマスウィークはとにかく暇です。友達はみんな実家に帰ってしまったし、街も静か。こういう時に「海外に住んでいる=根無し草」をひしひしと感じるものです。
もう暇なのは目に見えていたので、図書館で本を借りてきました。
借りに行ったのは中央図書館。
Hauptbücherei am Gürtel
U6 のBurggasse Stadthalleが最寄り駅、駅直結の大きい図書館です。
日本語の書籍があると聞きつけての来訪。
元々はギリシャ劇の日本語版があるんじゃないかと、淡い期待を寄せて向かいました。残念ながら、私が訪れた時は見つかりませんでしたが日本では本棚の隅っこにしかなかった劇場芸術やダンス関連の書籍やDVDが割と豊富。大学の図書館ほどではありませんが、それなりに美術書も一般教養的範囲で充実。ただ1日利用にしろ、1年利用にしろ貸し出し利用料金がかかります。さらにDVDは個別に料金が加算されます。図書館が無料じゃないのは初めてです。
入り口入って、向かって左側のカウンターで利用登録を済ませて、入り口お手洗い付近にある機械で料金を支払い、貸し出しに漕ぎ付けると言った具合です。
ざっくりですみません。ドイツ語で説明を聞いたのでざっくりとしか分かりません。笑
結局、お目当の本はなかったのですがオイディプスをベースとして書かれた世界の村上の「海辺のカフカ」と三浦しをん「舟を編む」を借りてきました。
最近はもっぱら戯曲かその原作、生物学や脳科学の本ばかりだったので小説は久しぶりです。日本語の本読んでる場合じゃ無いんですがね。笑
「舟を編む」を読んでいて、とても共感したことがあります。語学学習真っ只中だから作者の観点とは少し違う共感かもしれませんが。
※引用文を載せています。内容をそのまま引いているので、これから読まれる方はここまでで閉じてください。それでも構わないという方だけ、どうぞ。
「たくさんの言葉を、可能なかぎり正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差しだしたとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。一緒に鏡を覗き込んで、笑ったり泣いたり怒ったりできる」ー”舟を編む” 三浦しをん
私は、まさにその心情でドイツ語の、英語の、日本語の辞書を引いています。何か今の感情を表す方法があるんじゃないかと期待して。相手を安心させる、説得できる、もっと優しい言葉があるような気がして。ときには自分を強く見せようと意地になって。
戯曲の先生が「劇場には何があるか」と問われたとき「一つに言葉が存在する」と表現していたのが鮮明に記憶としてあります。ただ、大きな違和感もありました。
これは戯曲の先生は”言葉”から世界を眺めている、ということを強く物語っていて、同じような表現がこの「舟を編む」にも出てきました。
「生命が誕生するまえの海を想像した。混沌とし、ただ蠢くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、全ては生まれる。愛も心も。言葉によって象られ、旨い海から浮かびあがってくる」ー”舟を編む” 三浦しをん
確かに、頭の中にあるだけ、のものは無いのと同じじゃ無いかと思うことがあります。
それを外に出すときの手段は言葉かもしれない。言葉が肉体を与える。
でも私は、曖昧なものを言葉では無い落雷がつき刺すことがあります。
言葉では象ることのできない情景や景色、空気や匂い、眼差しや温度、感触と音が私の中に積みかさなります。それは不思議なことに、頭の中で、その瞬間を鮮明に再生することができるものたちです。言葉に変換しなかったからこそ、何度でも見ることができる。そういう記憶や思いが、またはただの空想が無数に私の海の中を漂っています。
そういう海の中から出てきた「言葉にならない」ものを”視覚化すること”が私の今やっていることなんだろうと思います。視覚化したものを、今度は誰かと共有するために、その出どころを探るために、私はまた海に潜るのです。そして今度は言葉としてかき集めて他者へと投げかける準備をします。その往来が今の私のやっていること。
活字中毒と自負するほどに、言葉への関心は深くありますが、私の景色は戯曲の先生のそれとはまた違うのだろうということを、この「舟を編む」を読んで思いました。
音楽を奏でる人はどんな風に言葉と付き合っているんだろう。
母国語で読むと、やっぱり深みが違うものなんだなぁとしみじみしてしまいました。