制作における「私は日本人」問題。

眠れない1週間がやっと終了。今日は今セメスターのメイン科目の最終プレゼンテーションでした。この1週間、ちょっと仮眠しても夢で制作してるという末期具合。今日はBarの誘いも夕食も全て断って直帰。18時から泥のように眠りました。

 

プレゼンは一人持ち時間30分、ひたすら自分の作品について喋り続けます。教授を筆頭にほぼ全ての講師の先生と全学生の前でプレゼンします。3ヶ月の集大成。評価は期末のマップ(作品集)、製図、模型、プロセスブックなど諸々、エッセイの提出と過去2回のプレゼンなどを加味して下されます。

 

今日のプレゼンは内容よりも、色々と考えさせられることが多く、帰路で涙が出るほど。ちょっと途方にくれました。でも熟睡したけど。笑

 

私はこの専攻、正確には今の教授に変わってから初めて採った日本人学生のようです。

今日、私が気づかされた私がヨーロッパで制作していく上での課題は「日本人」である自分と作品との位置づけ。

 

 

おそらくヨーロッパ諸国である程度コモンセンスだと思いますが、「日本」と言うトピックはヨーロッパ美術界隈において興味をそそるもの、のようです。簡単にいえば、「日本好き」の芸術家が特に教育機関に多い気がします。デンマークの先生も日本好きでした。正直、どうしてだろうという疑問はありません。言ってしまえば日本人でヨーロッパのヨーロッパらしいところが好きな人がいることの対義。パリ大好き!な日本人の逆みたいなもんです。

 

個人的な考察ですが、日本が島国であることが大きいと思います。大陸であるヨーロッパとは明らかにテイストの異なる文化、宗教、民族、風習、風土。さらに言うなれば色彩感覚から、表現へのつなげ方もヨーロッパのそれとはアプローチも違うというのが、私が今セメスターで強く感じることです。日本では「共感」と言う根強い文化があります。単一民族国家、というのが理由でしょうが「共通の認識」が暗黙としてあった上で物事が自然と流れていきます。それは芸術作品一つとっても、説明のない暗黙があるからこそ、日本人の作品は個人的な主題や感情に終始する傾向があると思うのです。これに対して多民族のEUでは主観の共通性が薄い分、例えば哲学や政治的な下地の上をもって作品が成り立つ、という違いがあるのではないかと思うのです。

 

風呂敷が大きくなりましたが、3ヶ月少々の浅はかなアナライズはここまでとして。

 

この3ヶ月、そして今日何に気づかされたかというと私はこの皆とは明らかに違う、さらに興味をそそる文化を持った「日本人」というトピックを持ってしまっている、ということです。例えば自分の作品のコンセプトの一単語にしても、それはどの文化から見た意味合いで話しているのか、を説明する必要があります。時として、私の作品より、私の文化的背景に興味の対象が移ってしまうのです。

 

「私」より「日本」が前に出てしまうことがある。

 

ヨーロピアンが話しても疑問に思わないことも、黒い髪の黒い目の私が話すことには違う視点があるのでは?という興味が教授たちに生まれてしまうのです。そして、幸か不幸かそれに答えられるだけの考察を私がすでに終えているが故に議論に乗りやすくなる。デンマークの先生が昔みんなに私について話したことを思い出します。「私は多くの日本人学生を見てきた。彼女の何が特異か。多くの日本人学生はヨーロッパの風土に自分の作品を馴染ませようとする。デンマークが好きなのでしょう。ヨーロッパが好きなのでしょう。でも彼女は常に客観性を持って文化を比較し制作する。混ぜるけど、混ぜない。あなたたちが国際的に何かする時、それがわかるかもしれない」

議論に乗りやすい理由があるようです。元来コンセプチャルであることは私の強みの一つで、そもそも話がディープになりすぎる、という自己責任。

 

気がつけば、私の作品の素材やテンション、構築技術ではなく、私の文化的背景に主題が移ってしまい作品の細かい批評の機会を逃しがち、というのが今の私の課題です。これはこの先、日本人以外を相手にした時についてまわる、いわば何か落とし所が必要な問題です。

 

You are a very interesting person. we are happy, you are here.

 

何度となくこの3ヶ月、教授に言われた言葉です。もちろん彼女的にポジティブに。

でも意味合いとは別に、特に今日はこの言葉は辛かった。

私、日本人だから受かったのかな?という疑問が頭を離れません。you are very welcome because you are Japanese.という被害妄想。 もちろん、何度となく「そんなバカな」と周りには言われますが、でもある側面ではそうなのです。アドバンテージとして捉えられるほど楽観的になれないし、私がコンセプチュアルアートの分野にいる限り、または私の特性がそこにある限り、この先の制作において「日本」との距離感を計り続けなければなりません。

 

おそらく、私の作品はまだ弱いのです。

日本という背景に負けるほどに弱い。それをアドバンテージに変えられるほどの強さを持っていないから、簡単に主題をそちらに持っていかれるのかもしれない。

 

でもこの先どんなに、何を作っても、作らなくても。ただ生活をここでしていく限り、私はこの「私は日本人」問題とうまく折り合いをつける必要がある、ということだけは明白です。本来は親日の一言で片付くのに、どうも複雑になりがちなのはご愛嬌。

 

兎にも角にも、「そういえば日本人だった」と言われるくらいにドイツ語と英語の能力を高め、作品を組み立てられるようになることがまずは第一歩。

 

あ〜もう、何も考えずにぼーっとしたい。笑