押し切る強さ。

10日ほど前の更新から日が経ちました。何をしていたかというと朝から朝までオープンアトリエの準備をしていました。昨日、力技で幕が開きました。

 

前回、なんだか嫉妬の空気がうんちゃらと言う話を書きました。

それからどうなったかというと、なぜか突然の友好ムードに切り替わりました。サポートに回ったメンバーが総じて「楽しむ」ことへと方向をシフト。

 

いや〜良かったね!となればハッピーエンドだったのですが。この「楽しむ」はそれはまるで「文化祭的に楽しむ」空気。みんなで助け合って、雰囲気よく。その空気がアイディア元の数人を強烈に押し流していきました。かくいう私もその一人。正直に言えば、誰かに見せられるような作品にはなりませんでした。サイズ感だけが先走ったインスタントアート。それが私の感想です。

 

 

そして何より、文化祭的ノリを楽しむ皆んなの空気を壊してはいけないと、勝手に思い込んだこと。今、私も大学生ではあります。でも、私は日本の専門学校時代に十分に「学生生活」というものを楽しみました。そしてもうその時代を懐かしみ、また繰り返したいという思いは今回の学生生活にはありません。

 

一緒に勉強しているみんなを「若い」の一言で片付けるような気持ちもサラサラありません。彼らから学ぶことが沢山あります。一緒に笑い転げることもあります。困ったら親身に相談に乗ってくれます。刺激を与えれくれ、気持ちをシェアし、議論できるベクトルを持つ人たち。大事な友人と呼べるような、そういう関係ができつつあります。

 

ただ「学校生活」に求めていることが、初めて学生をするみんなとは微妙に温度差があるのです。私にそれを邪魔する権利などありませんし、求めてもいません。

 

同じように今回の空気感に疲弊していた子がいました。ただ、理由が明確に違います。彼女は「仲良くやろう」「責任をシェアし果たそう」という空気感自体が嫌だったようです。「こんなのはアート環境ではない!どうしてこんなにプレッシャーをかけられて、自分のアイディアを奪われ、醜い作品を作らななければならないのか」そして「そもそもこの専攻、授業が多すぎる。忙しすぎる。厳しすぎる。自由がない」というのが彼女がこの3ヶ月半で蓄積した感情です。私の専攻はマスターでかつ、大学内でも忙しく厳しいので有名なのです。

 

 

そして彼女はこの気持ちを他の子たちに話し始めました。

そう、彼女は変えたいのです。

 

感情を表に出す。

自分の納得がいかないことは主張する。

そして変えたい。

 

私は今まで住んできたどの国でも共通して感じていたことがあります。それは法律の改正されるスピード感。日本では例えば夫婦別姓など、同じトピックをずーーーーーっと話している印象があります。そのくせ権力の利益になりそうな法案はしれっと捻じ曲げて通しちゃう。そんな日本は先進国の中では珍しい部類では?と浅はかな知識ながら感じます。他の国では「今必要、よし選挙だ!よし変えるぞ!」という気迫を感じる場面があります。そして実際に変わります。たまにデンマークへの留学手続きなどを聞かれますが、私が知っている数年前の知識は役立たないだろうと思います。ことヨーロッパでは特に。移民関係ははやいので。まぁそれは、また別の話です。とにかくそんな気迫は、小さな大学生活でも発揮されています。

 

彼女の主張は日増しに強くなっているように感じます。このままいけば間違いなく、そのためのミーティングが開催されるでしょう。それは彼女のデモクラシーでしょう。

 

私は学校生活云々よりいつも自分のことに精一杯です。今だって、今回の雰囲気について書いていながら、私は私の問題で手一杯です。夫婦別姓に決着がつかない責任が私にあるような気さえしてきます。

 

作品が作品たらなかった。

 

そしてその原因に今回やっと気がついたこと。

 

私は社会人生活を通して「人の期待に答える」「どう結果につながるか」ということを軸に物事を考える癖がついたようです。客観的とか俯瞰的と言えば聞こえはいいですが「自分が好きか嫌いか」のアンテナが小さくしぼんでいるのです。そして信じきれていない。評価されることに悪い意味で依存してたんだと思います。褒めたり叱ったりされないと前に進めない、子供のような部分。協調性に隠れて自分の中に根を生やしてしまったようです。

 

できれば、日本の社会人生活で培ったこの「期待に答える」精神は無くさずそっとどこかへしまっておければいいなぁと思います。スイッチの問題なのだと思うのです。

 

教授にも釘を刺されました。「あなたはあなたの感性を押し切る強さが必要」と。

 

支離滅裂なブログでごめんなさい。でも一つに、個人的な制作の悩みが回り回って、社会に仕儀を招いているような気がしているのです。