気がつけば2月。気がつけばウィーンでの生活も4ヶ月が経過しました。
残り数日でファーストセメスターが終了します。昨日先生に「kiki元気?」と言われてしまいました。時々とても疲れているから、と。
多分歳です、先生。笑
でも心配されたのには心当たりがありました。私の専攻は学生が少ないので、先生同士で細かく我々の情報共有がなされているようです。話してないのに、他の授業でのことをみんなが知っています。過保護。笑
実はこの4ヶ月取り組んでいたセメスター課題。いろいろと深く抉られるものでした。詳しくは、また落ち着いたら書きたいなぁと思います。ただ、その抉られ続けた結果、オープンアトリでのパフォーマンス中に涙が止まらなくなってしまいました。
オープンアトリエでは全日程の全時間帯、通しで学生が交代してリーディングのパフォーマンスを行いました。私も全7回あったのですが、その1回でどうしても涙が止まらなくなりました。このパフォーマンスで読み上げるテキストの主題は「災害」で、かつ今セメスターの課題でもあった「地震」と「日本」そして「Fukushima」。書くと長くなりますが、とにかく、その主題をドイツ人がドイツ語で書いたものを私は読まねばらなず。どうにもやりきれない思いがありました。私のパフォーマンスが好きで全回を聞きに来てくれていたディレクターの先生はびっくり。終わってそこを離れようとした時に「どうした?」と声をかけられてしまいました。私の中で、それは大事なことだったので「言葉にしたくない」と伝えました。「誰かとシェアしたい感情じゃない」と。
先生は「どんなことであれ、悲しみは芸術だということを私は今感じた。美しかった。溢れ出るということは、それ以上のことなんだ」と。
ずいぶんドラマチックな感想です。でもそれが他の先生に伝わったのでしょう。心配をかけている、ということもわかっていました。ただ、もう子供ではないので「全ての出来事を誰かに話して解決したい」というフェーズはありません。自分で大事に抱えていいことがある。この30数年で学びました。ただ笑顔で「元気だよ」と無理せず言える自分に少しホッとしています。
ドラマチックな感情表現をしない私は、ここではなかなかミステリアスな人物のようです。元来、気分屋で感情の起伏が激しい私ですがほとほとそういう自分に疲れました。そもそもそういう感情の置き所がうまくなかった。でも今はそれを抱えて作品にすればいい、という選択肢があるおかげで私生活は穏やかになりました。だからパフォーマンスで号泣しようと、一人でカフェに行き、一人でまた平常を取り戻せるように。
アトリエでFワードを発しない私がよっぽど不思議なのでしょう。「どうしていつも笑顔でいられるの?」とすら聞かれます。年でしょうね…とは言えない。
最近、友人たちが「永住のススメ」なる「Fワードを発するほどの感情表現」講座を私に与えてくれます。そしてここには2つの誤解があります。まずはたとえ日本語でも私はFワードタイプじゃないこと。私の絵ほどアグレッシヴじゃないんだよ。笑
一番は、そもそも永住するつもりはない。
不思議なことですが、どの国でもちょっと長めに滞在していると「永住したいんでしょ?」と言われます。私にはこの発想はありません。日本に住む海外から来た人にそんなこと聞いたことありません。でもカナダでも、デンマークでも、ここウィーンでも聞かれます。なんなら「日本って労働時間長いし、厳しいし、賃金も安いんでしょ?男女平等じゃないって聞くし。英語も喋れないし。だからでしょ?」
すごい日本馬鹿にされてるじゃん。とても悲しい。
確かに、このまま4年以上ヨーロッパに住んでいたら何かのきっかけで永住する可能性がゼロではないと思います。他の国に移住する理由は千差万別。愛する人がそこにいるから。国なんて関係ないこともあります。それは私にもわからない。でも日本と別の国とを比較して、「だから移住したい」とはならないだろうなと思います。原発問題があろうとも、政治に納得が行かずとも、それも含めて母国です。私にはそういう問題と向きあう理由があると思う。家族が日本にいる。母国だから。
なので、原発問題を出されようが、福祉のことやジェンダーのことを持ち出されようが「それはもちろん問題、解決しないとね。でもだから移住したいとは思わない。私の家族は日本にいる。きっと私は日本に帰るよ。」はっきりとそう伝えるようにしています。
もちろん、自分の納得の行く場所で生活する権利があります。だから日本をそういう理由で離れる人の気持ちも十分理解しているつもりです。子供のために、そういう場所を選ぶことがあります。私にもし子供がいたら、また違うだろうとも思います。
ただ、比較だけでは物事は決まらない。
時々、どうして「国」について考えるのか。どうして「文化」を守りたいのか。どうして「外国人」なのか。そもそも「国境」ってなんだろう。考え出すとまだ取り留めもないことです。常によそ者として比較される生活を繰り返す中で、そう思うようになりました。