物理的移動について考えさせられたWiener Konzerthaus。

やっぱり今日も曇り空。でも昨日は久しぶりに日中晴れたのでドナウ川沿いをお散歩しました。考えることは一緒なのか、すれ違う人の数もいつもより多め。

 

昨日はWiener Konzerthausへクラシックのコンサートへ行きました。

Wiener Konzerthaus

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wikipeiaよりお写真拝借。1913年に建てられたコンツェルトハウスです。

オペラや演劇はいいペースで観に行っていますが、クラシックコンサートはウィーンに来て初めてです。夕方、眠くなったら困る(失礼)と思って仮眠を取ろうとしましたが、うまくいかず。色々とドキドキしながら夜、会場へ向かいました。

 

 

そんな心配はご無用でした。

素晴らしかった。特にIgor StravinskyのChant funèbre op. 5に感動しました。

私はクラシック通でも楽器を演奏できるわけでもないので、何がどう、というのは感覚でしかありません。音の厚みや迫力、緊張感と緩急がCDやましてやYoutubeで聞くのとは雲泥の差です。同じ曲なのかと耳を疑うほどです。

 

日本でもクラシックのコンサートへ行ったことはありますが、片手で数える程。行かなかった理由も特にないのですが。あまり生活の中で身近になかったというのが強いて挙げるなら理由でしょうか。クラシックはCDやyoutubeで聞く、そんなクラシック素人の私ですが、ウィーンへ来てからオペラもクラシックもとても身近なものになりました。好きとか嫌い、以前にライブの力に純粋に圧倒されます。生で聞く、観る、感じるというのが何よりも楽しいのだということを改めて感じています。

 

今回のウィーン放送交響楽団のコンサートは大学関連。ラインナップはJoseph Haydn, Toshio Hosokawa, Igor Strawinski。この中でMr. Hosokawaと教授がお仕事している関係で、今回チケットを買って初めてウィーンコンツェルンハウスへ。

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下手くそな写真ですが。前から8列目。演奏者の顔もはっきりと見えました。

 

セメスターホリデー中で実家に帰ってた子達と会場で再会しました。みんな風邪で1週間ほど寝込んだ、と。私たち、似たり寄ったりな休みを過ごしていました。笑

Mr.Hosokawaの音楽と所縁のあった今セメスター。みんなそれなりに彼の音楽を聞いてきました。隣に座っていた友人。音源をCDで聞いてた時はあまり好きになれなかったんだけど、ライブを聞いて良さがわかった気がする。全然違う音楽みたい!と。

 

私も同感です。

録音技術のなかった時代。音楽はライブが当たり前だったはずです。ライブが当たり前だったからこそ、観衆の耳も音楽家の技術や感性も磨かれてたのかなぁと感じました。今はインターネットでなんでも見たり聞いたりできるけど、その瞬間を肌で感じるような体験とはやっぱり程遠いものがあります。コンサートの帰り道。自分の体が物理的に移動することの意味に考えが巡りました。

 

私はこのブログで「ぜひ海外に出てください!」とか「海外に行かないなんてもったいない」とか言ったことがないように思います。意識して、そういう主張はしないようにしてきました。そもそも、自分のしてきたことに絶対的な自信などありません。人生論を誰かに押し付けたくないし、人の幸せというのに絶対はないと思うからです。私の両親は海外旅行に行ったことがありません。でもそれについて物申すことも、もちろんありません。彼らは、彼らの幸せの範囲を自分で決められる自立した人達だからです。私や弟が海外で暮らしていることについても、肯定的。なんなら行ったこともない外国の文化や考えを親として知りたいと本を読んだりしています。私はそれがとても誇らしいし、「やったことがあるか、ないか」でことを収束させない懐の深さを感じます。だから、これをしないなんて損してる!なんて一ミリも思わない。

もちろん、「海外おすすめ!」という主張が全て押し付けがましいってことではありません。自分がいいと思ったことをシェアしたい気持ち。私は単純にシェアと主張の表現をうまく切り分ける能力に乏しいのかもしれません。

 

ただ、素敵な音楽や演劇やダンスを観た帰り道。日本とは違う日差し、木漏れ日、月光の中にいるときに。初めて見る空の色や空気の冷たさを、大好きな人にも届けられたらいいのにと思うことがあります。物理的に移動しなければ感じられないこと。

 

なんとなく、そんなことを考えました。