「そういうもの」で片付けるのは日本人的発想だと思う。私を含めて。

今日はちょっと暖かいウィーン。街も人が多かったです。

 

とても気になるトピックが日本の多摩美術大学の彫刻科で発せられています。

https://sites.google.com/view/student-choukoku/home

内容はこちらのサイトで確認することができます。私がサマリー的に書くには内容が広いので割愛します。きっちり当事者の発言を読んで初めてピンとくることだと感じるからです。

 

私が気になったのは、この投げかけに対してのネットでの反応です。残念ながら私は今日本にいないですし、多摩美のまさにそこに知っている人がいるわけではないので、見れる反応はネットになってしまいます。

 

「だったら大学をやめて自分でやればいい」

「私の時もそうだった、だから私は〜した、だから方法論を自分で見つけよ」

「私の大学でも同じようなことを感じる。要望が通ることを願っています」

 

賛成か、反対か、立場を明らかにすることに終始していて、この議題に対しての「視点を増やすこと」に意味を見出している人が非常に少ないのではないかと思うのです。

 

 

例えば電通での過労死の事件にしたって「社会とはそういうもの」「クリエイティブ職とはそういうタフさが求められる」「自分たちはそうしてきた」とかそういうものという常識を疑い、そもそも様々な立場から物事を考える空気が残念ながら乏しい。マスメディアが取り上げなくなれば生活の中で話し合わせる機会が格段に減っていく、もしくはマスメディアからの一方的な見解の中から「共感」というツールを通してしか意見を持たない人が多いこと。そういう空気を、また感じました。

 

ディーベートとは、ただ答えを出すために行われものではないと思います。日本の教育の中でディベートの機会は多く提供されていないのではないか、というのが私の想像するところです。多数決を最後にもってくる話し合いをディベートと称することがありますが、それは本来のディベートとは距離があります。私はこれまで一度も日本以外の国で多数決を求められたことはありません。今書いていて初めて気がつきましたが、「〜がいい人?」「はーい!」という場面を民主主義として、こちらの人は捉えていないように思います。

 

意見を求められると「賛成」か「反対」を聞かれているとつい考えてしまう。それの影響は私も例外ではありません。大学の授業の中で「自分の意見」をディベートの中に画一的に持ち込んでしまい、反省することも多いです。私は自分の意見はあるけれど、ディベートが上手いとは言えません。勉強中です。

 

もちろん、この多摩美の意見書については、なんらかの発展的な回答が必要であり、それは「結論」だということは私も理解しています。でも結論を出すことを前提に議論を開始しなければならないという、日本の暗黙的空気感が、多くの問題をディベートのテーブルにあげる機会を失っている原因かもしれません。

 

「それはそういうものだからしょうがない」と片付けられるのは、ある意味非常にタフだと思います。そういうタフさから、例えば日本の質の高いサービスや製品が生まれてるという側面もあると思います。でも果たしてその「質の高さ」は「しょうがない」と何かを圧迫してまで必要なものなのか。それは何に対しての責任からきているのか。

 

どういう視点がありえるのか。可能性を諦めることなく活発な意見交換がこの件についてなされることを期待して見守りたいと思います。私はこれを契機に自分たちの学ぶ環境について定期的な意見交換の場をどの大学でも生徒と教員の間で持てるようになる、というスタートラインを期待しています。匿名でなければ異議申し立てできない、というのがそもそも不思議な環境だということも、個人的には話し合われていい問題だと思います。