背景を超える作品を。

 以前、抽象的な日常を送っているというどうでもいい話を書きました。

 

kiikiii.hatenablog.com

 同じく議論にまみれた日常を送っています。

芸大生、アート界隈特有のこのテーマを色々な角度で解剖していく感じを楽しむ習性。

時々とんでもなく疲れる時があります。笑

 

もちろん、自分もそういうところがあるし、そういう日常には慣れてはいるのです。お互いを理解し合うのは素晴らしいことだと思うし、興味を持てなくなったら芸術を勉強するのは、その世界で生きていくのは難しいかもしれません。

 

ただ時々、全てに意味があり、全ては言葉で説明でき、相手と交換できると信じてやまない人と会話していると思います。理由のない「NO」や「YES」を否定する方が狭い考えなんじゃないかって。私は心のどこかで、感覚的な解釈、身体的な解釈だけで完結することがあると思っています。「感情が全て」という瞬間、それを信じることも必要だと思うからかもしれません。だから全てに背景があり、文化があり、理由があるんだろうと言う程で会話を四角く囲われると、居心地が悪いなと思う時があります。

 

例えば、私の全ての要素の背景には「日本」があるのだろうと探している感じを受ける時。もちろんあるでしょう。でも文化的な要素以外、ジェンダーや教育以外の柔らかい要素を持ち出して会話できる人は案外少ないです。それこそ、芸術と関係ない人の方がそういう柔らかい要素に敏感だなとすら感じる時があります。

 

物事を深く咀嚼することは必要。でもそれが全てではない。

 

一番嫌なのは、芸大生が芸大生以外を「一般人」と呼び区別すること。そう区別の線を簡単に引けてしまう感覚はわかります。私も無意識にやっている時があると思います、非常に恥ずかしいことに。先に書いたように、抽象的な会話を誰もが楽しいわけじゃないので、そこを境界線に「私たちと一般人」としたいのでしょう。私も含めて。

 

でも区別された一般人からしたら「私たちとアーティスト気取りの変な人」だろうと思います。戒めも込めて、そう思います。

 

さらに聞きづてならないのは、「一般人」との会話は面白くない。YESかNOかを簡単に提示されて終わるから。とか言ってる時。そのYESかNOの一言で片付けたい「感情」というのが相手にはあるんだと想像すれば、自然なことかもしれないのに。

 

昨日、教授から前セメスターで提出した作品の総評を貰うミーティングを行いました。彼女から「あなたの全てが私には、ここではギフトであり、あなたには影響を受けているわ。感情を持ち出し物事に深く入り込めない場合はその人に責任があると私は思う。制作ははまず自分自身の感情を揺さぶることが必要なの。あなたとあなたの制作プロセスを見ていてその大切さに気づかされるし影響されるわ」という、驚くとともにこの人の元へ来てよかったと心から思いました。彼女は「時に理由のわからない深い感動がある。だからあなたは恐れてはいけない、信じるのよ」という言葉を貰いました。

 

理由のない子供の絵に感動することがある。日常の友達の話に涙することがある。頭でっかちになりすぎないこともウィーンにいる中で大切にしなければいけないと思っています。ちなみに教授に「でも働きすぎよ、たまには休んで頂戴」とも言われました。ハードワーカー認定は継続中です。笑