海外の人は本当に言いたいことを言っている、とは思わない私の場合。

タイトル通りの話なんです。

実は最近、どうして日本人の学生やワーホリの人がそう言っているのか、にふと思い当たることがあったので、改めて書いてみようと思いました。というのも、最近そう思いませんか?と聞かれたことがあったので。まぁ、自分に対する備忘録が99%なので、あっそう〜くらいに適当に流してください。

じゃあ書くなって?ご容赦くだされ。

余談で。ドイツ語社会な私のクラスの留学生は、このタイトルに変わる言葉として、「ドイツ語の人はどうして1から10まで全部話したがるのか」をよく言っています。ちょっとくどい。笑

 

私は日本以外の生活において、ここが海外だから、だから周りの人が「言いたいことをなんでも言っている」とか「はっきり言っている」と特別感じることはありません。

まず、これが私の前提です。

さらに言うなれば「日本人社会より性やマイノリティーにデリカシーがあって発言に気を使ってくれる」という印象が強いです。簡単に言えば、カナダでもデンマークでもここウィーンでも日本人社会で許容されるような下ネタ的セクハラ発言もパワハラ的発言も受ける機会はほとんど、本当にほぼありません。もちろん生活環境として、そういうことをテーマに生きている節のある芸大生やアート関係者に囲まれているということはあるかもしれません。でも一般教養の範囲でも、そういうことに対する知識や教育レベルは残念ながら日本とこちらとでは正直比べられないほどの差があります。

 

私が冬セメスターでジェンダースタディのどのクラスを取るか悩んでるという話を同居の娘さんにした時のこと。19歳、高校を出たての彼女は私よりも詳しく、聞けば「あぁうちの高校はジェンダースタディに力を入れてたから」と。ウィーンにある普通の公立高校です。簡単に言えばそういうことです。

 

そんなわけで、まずそういう点においては日本社会の方が100%言いたいことを言ってるな、という印象があります。厄介なことに、それにアレルギーを示すとなぜか冗談がわからないやつというレッテルを貼らるということも、長い社会人生活で経験してきました。さらにそこに海外生活から帰ってきた情報が加わると「海外かぶれ」とダブル偏見を持たれるので、もはやそういうノリは無視するしかないというのが今のところ私の対処法です。本音では「まじシンドイ」って思ってます。まぁそう思ってることもバレてます、きっと。すいません。

 

そういう圧倒的な違いがあるのに「言いたいことを言っている」と日本人が感じる理由がなんなのか。個人的には3つ理由があると思います。

 

その1:そもそも話している相手もその言語のネイティブや上級者ではない。

これは自分がそうだから。言葉の言い回しを知らなくて、時にどうしてもダイレクトな表現になってしまうことがあります。だから最初に「直接的な言い方しかできなくてごめんなさい」という一文を覚えることにしています。いくら見た目が外国人でも、頻繁にそうゆう表現をされたら不快に思う人はいるだろうし、特にメールや文章の時には誤解も招きかねない。

ただ、この一文が免除される不思議な場面が一つだけあります。それがお互いに上級者ではないとき。つまりは語学学校がそれに当てはまります。言いたいことを伝えるので精一杯なのでダイレクトに言い合います。ワーホリで語学と真剣に向き合うのは語学学校だけという人も多いと思います(ワーホリは休暇と働くの二つがセットなので当たり前です。批判する気持ちは毛頭ありません)、なので語学の経験値がそこに集約してそういう感想を持つのかもしれないと推測…。現に私も語学学校の知り合いに対しては「きついな」という印象を多少なりとも持つし、相手もそうだと思います。逆に言えば、それでも気持ちがわかって、お互い許せる部分があるので仲良くなりやすい人も多いのかもしれません。

 

その2:ネイティブの集団生活に入る機会が少ない

留学生やワーホリだと、同じ境遇の人との関わりが1日の大半を占める場合があると思います。当たり前ですが、お互い境遇が似ていれば不安や興味を共有しやすく、とてもいい友人になれるものです。ただ、案外ネイティブの集団生活を垣間見る機会というのが少ないのではないかと思います。個々に仲の良い現地の友人がいたとしても、集団に紛れる機会は不思議と出来にくいものです。

 

多分、私はこの集団に紛れる生活がいつも海外生活の基本にあります。

カナダでは現地の企業でバイトしていて、外国人が自分一人とか。デンマークの学校は後半半年、これまた外国人留学生は自分一人とか。今の大学でも自分が圧倒的にヨーロッパ社会の集団に潜り込んでる感があります。モグリ。笑

そうすると、気がつくことがあります。

あぁ、みんな私の直接的で時に失礼な言い回しを許容してくれているなって。

例えば大学で友達が誰か友人ではない人に電話しているのを隣で聞いている時。

大学でグループの会話を聞いている時。

クラスメールを読んでいる時。

カナダでは営業と事務の人が話をしている時。

そういう会話を聞くたびに、私も気をつけようと思います。それに友人同士の悩みを聞いたりしても「こういう言い方をされた」とか「こんなことを言われた」とかも聞きます。これは日本人同士の人間関係となんら変わらないとも思います。

 

その3:議論についての概念が日本人とは少し違う

これは超個人的な体験と感想なのですが。日本人同士の話し合いには「話の腰を折る」なんて言葉があるくらい、合意や共感を生み出すことに意識が向いている場合が多いと思います。ある種、白黒つけるために行われている感があり、合理的といえばそうなのですが多様性に欠ける部分も大いにあります。

逆に私の経験上、ここでの話し合いは「お互いの違う意見を持寄る」です。前提が意見が違う、というところからスタートするし、違うから集まっている。その前提で進んでいくので、それぞれが意見を発信します。そして面白いなと思うのが、同じ意見でも違う意見でも、そこに参加している責任を果たすために、自分も意見する必要があると考えている人が多いことです。誰かと全く同じ意見でも、自分の言葉で繰り返す人が多いです。知らずに聞いていると結構疲れますが、それは責任感からくるものだと理解してから、私も聞けるようになりました。最初は「なんでまた同じことをこぞって繰り返すんだろう…」とちょっと不思議に思ったものです。逆に黙っているのは参加の意思がないと思われる場合もあります。

そして、最初の海外生活、デンマークでのカルチャーショックとして「議論は徹底的に、でもそれと私生活は別」というのも感じました。これはここウィーンでも同じです。プレゼンでボロクソに酷評された学生が、その数分後にはその先生と二人で仲良くタバコ休憩しているとか。散々意見が食い違った(というか妥協点を見つけるにいたらず、意見を出しただけで終わった回)後に、みんなで、じゃぁコーヒー飲もうか、と和気藹々としたり。それを経験すると「言い方さえ気をつければ意見は発信するべきなんだなぁ議論とは」と云う気持ちが生まれ、生粋の日本人には勇気も湧きます。笑

 

ただ確かに、そういう光景がもしかしたら「いいたいことを言っている」ように見えるのかなぁと思います。まぁ実際議論中はそうなのかなぁ…いやでもなんかニュアンスが違うような気がします、いいたい放題は言ってない。

 

なんでこんなことを、こんなところで書いたのか…と云う感じなのですが。

もし言いたいことを言ってもいいと言う誤解のもと、無理にそういう行動をしてしまう人がいるとしたら。それは相手が何人でも感じることはそんなに変わらないんじゃないでしょうか、と私は思うということを書き残そうとしました。意見を述べることと、言いたい放題言うことは違う。ただそういう誤解が生まれる根底に「意見が違ってもいい」というのが、欧米圏とある種共感社会の日本とで大きくギャップがあるのかもしれません。あなたと私は違う。それがポジティブな社会でもあります。

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違いを受け入れる寛容さで、私も片足行方不明の靴下と付き合いたいと思います。

どうして洗濯しただけで行方不明に…