風が強くて窓が割れるんじゃないかとドキドキ中。本日のウィーンはちらちらと雪が舞っていました。寒さはまだまだカナダ程ではありませんが、友達に脅された通りの風の強さ。デンマークを思い出します。
今日はもやもや日記。
課題の制作や授業を受けるために本を読む必要に迫られています。
世界中の大学生が同じように迫られていると思います。
この2ヶ月半、調べ物があるとサボり心から「日本語版ないかな?」とネット検索する癖がついてしまいました。でもその度に思うのです、こんなことしてて、ここでこの先やってけるのかなぁと。でも夜23時に帰宅して、明日の10時までにギリシャ古典をドイツ語で1冊読めるかって言ったら、読めない。しかも辞書を片手に、結局合ってるかも不明な自己流翻訳になる。そんな言い訳を元につい、日本語版を探してしまいます。
ですが、どうにもこうにも、これではダメだと思うのです。(当たり前)
2ヶ月半でペラペラになったら、それはもう天才かもしれません。わかってる!
語学は圧倒的に量をこなさなければいけないと!
東大生(天才)だって量をこなしてるんだって!いや、東大生今関係ないけど!
時間を取るか成長を取るか。
セメスター留学だったら、もう時間をとりますよ。きっと。でもフルで卒業しないといけないんだから、量をこなす覚悟が必要…。
言葉のニュアンスが感覚的に入ってこないと、先生方とのミーティングでもいらないストレスを抱えます。だって「わかる単語だけで理解」してるので、ニュアンスがわからない。言葉だけがずんっと残ってしまうことがあります。
以前に、教授は指摘の仕方がうまい、という話をしました。
私の語学力でも明確に、何を言わんとしているのかが伝わってきます。真髄一撃!
教授とのコミュニケーションにストレスはありません。
ですが、もちろん他にも先生は沢山いるわけです。
先日、ある先生と個別ミーティング中のこと。
私が「ヨーロッパの人(ここでは大学関連の人)が”ヒロシマ”と”フクシマ”を同列に並べて戦争も含めた一つのサイクルとして議論し、作品に落とし込む、その感性が頭では理解できるけど、感情として落とし込めない。ヒロシマの原爆は日本が戦争に加担した結果であり、被害者一編ではない。フクシマにもアメリカとの関係性のなかで危険性を顧みず原発を海辺に建設したことで被災者以外の立場がある、すなわち戦争を起こす人間の原理的なこと。そういう視点で話していることを、理論としてしか入らない。ヒロシマの原爆ドームで見て聞いたことや、震災時の光景や自分が感じたことを合わせて解釈していくしかない。正直、今は自分の感情と作品との距離感がわからない。」と説明しました。
すると先生が「でもこの戯曲上でも、現実世界でもそれは一つのサイクルだから。」
*今回のセメスターでは人災と自然災害が根底にある戯曲を全員が扱っているのです。
多分、ニュアンスがもっとわかれば「サイクルだから」という一つの言葉としてぐさっとこなかったかもしれません。もしくははっきり言われたことを、より鮮明に理解し自分の意見をもっと展開できたかもしれない。
ただ、今回はその先生の言葉で恐ろしく孤独感を味わいました。
「でも他人事じゃないんだよ、それがたとえ劇場の中で起こることだとしても」という気持ちと「自分の感情はこの分野において必要ないのだろうか。でも芸術って理性的批評発表の場じゃないでしょう?」というもやもやが残っています。
最終的には感情論が勝る私は子供なのだろうか?
じゃあ制作する時の感情と作品の適切な距離感ってなんだろう?
もう、もやもや。
今の課題に限らない、私の制作スタイルに対するもやもやです。
ただ、他の先生には「その感情はギフト」と言われたことがあります。
芸術の世界には「制作者」と「作品」と「鑑賞者」がいて、でもそれは一つの世間の中、世界の中で成立する必要があり、その共通言語を探すこと。または発見し提示すること。気がつくこと。それが私の制作スタイル。でもここにきてわからなくなりました。
これは言語的なハンデからきているのでしょうか。
霧の中のような会話の中で生まれた悩みなのか、そうではないのか。
ウィーンにきて最初の壁にぶち当たっています。
もやもやが最大限に現れた適当気分転換のコラージュモデル。
精神状態暗すぎ。笑