ダブルスタンダード。ダブルレイシズム。

先日、アジア系の友達と二人でウィーンを歩いていた時のこと。車に乗った男性が道路から私たちに叫んできました。

 

「ニーハオ〜!We love Chinese! ギャハハ〜」

 

沸々と「はぁ〜?」と怒りモードになる私たち。

以前、ニーハオと声かけられるよねってちょっと書きました。

 

kiikiii.hatenablog.com

 アジア系観光客の呼び込みで「ニーハオ」と声かけてくるのとは別に、こういった経験が街中でよくあります。私はダブルレイシズムだと思います。

 

その1.発言者は男性率100%

女性から言われたことは一度もありません。先の記事のデンマークでおばちゃんと電車で対決のような一対一は別として、路上で叫ばれるような場面では100%男性です。ちなみに国籍は不特定。白人も黒人も中東系もラテンも様々です。ただ男性です。しかもけっこうしつこい人が多くて、先日電車の中で「hey日本人か〜」と声かけてきた白人男性。私はイヤホンをしていたことを理由に無視。でも諦めない。めんどくさいので「そうだけど、だから何?」とギロリ。この人本当にしつこくて、そのあと電車を降りてもついてきました。待ち合わせに向かっていてよかった。怖いから!

友人曰く、先日彼女の知り合いとウィーン観光中のこと。その彼女、例のごとく街中で同じように叫ばれたのですが、スマイル返しした!とのこと。友人の見解では、意味合いがわからず、外国語もわからないから曖昧に笑顔で乗り切ろうとしたんじゃないかと。でもあとでニコニコしてるだけじゃダメなの〜と説明したそう。

レアな日本人に会えて嬉しい!話したい!というのはちゃんと別で伝わります。お前らそうじゃないだろう、と言う輩がいるのです。

 

その2.アジア人以外と歩いてると言われない

アジア系の友達だけで歩いてるとよくあるこの事象。ふと気がつきました。アトリエのアジア系じゃない友達と歩いてる時には一度も起きていないことを。そのことに気がついた時、信じられないくらいがっかりしました。

 

カナダでは一度もそんなことありませんでした。個人的なナンパみたいなのはあるから、それが同じ意味だったのかもしれないけれど。やっぱり、それと路上で叫ばれるのはワケが違います。言い逃げ許すまじ。カナダが移民国家であること以上に、カナダ人自体が多様な社会であることにある種の誇りを持っています。トランプ当選の時が顕著でした。我々の大統領はそんな差別発言しない!という誇り。

 

 一緒に居た友達と憤慨。彼らはこれが差別的発言だって自覚が無さ過ぎると思うのです。どこかの西洋人ジャーナリストが、公共の何かできっちり発言すべき問題だとすら思います。新聞も本も読まないような人にも届くようなところで、Diversityとはなんたるかを…。こういう人種差別をする人は、別の人種が指摘したところで聞く耳を持たないケースが多いです。自分と同じ、自分が認めた人種(何様だよ!)の話しか聞かないところがある。さらに、いつも思うのですが、差別を受けた人が声を上げない限りその問題に社会が気づかないというのは、あまりに想像力が無さ過ぎるだろうとも思います。アジア女性が訴えなくても、おかしいとわかることなのに。

 

沸点越えの私達ですが、怒っていてもしょうがない。

「毎週髪の色を変えて検証して論文書こうか」

「次ニーハオって言われたらボンジュールって返そうか」

「これについての風刺炸裂な作品つくって反論しよう」

 

結構よくある意見で「日本人がほいほい外国人についていくから、軽視されてるんだよ。そっちにも原因あるじゃん」と。私も最初カナダのナンパの嵐に、同じようなことが頭をよぎりました。でもそんなとを思った自分を猛省しています。何て浅はかな考えだよ、私。これ、レイシストって言われたくないから言論の自由を振りかざすタイプの発言だと、今は区別されます。言論の自由は人を傷つけるための盾じゃないんだよ!路上で言い捨てていいわけじゃないんだよ〜!笑顔だったからレイプしましたって曲がり通るか!倫理勉強してこい〜バカ〜!独裁者と独立運動についても勉強してこいアンポンタン〜!

 

それでも百歩譲って、他国で生活する身なので、ナショナリズムだと言われたとして。一万歩譲っても、じゃあダブルスタンダードな市民も巻き添えにしてることはどうなのよ?と思います。生まれも育ちもヨーロッパ、ただ髪が黒く肌が褐色な私の友人にまで投げ捨てるように言うのはどうしてですか…。ダブルスタンダードな彼らは、自分のコミュニティでは起こらないけれど公共の場で無差別に傷つけられることがあります。

 

デンマークの友人。移民2世の彼が一言。「僕だって外国人みたいなもんだから」

そう言わせる根っこについて、よく考えたいと思います。

 

だってこれからまだまだ増えます。自分の国で安全に生活できない人が溢れる世の中の一端と責任は平和な国で過ごす私たちにもあるはずです。

 

緊迫するシリア情勢。とっくに数年前から緊迫を通り越して悲鳴を上げているけれど、ここいきて代理戦争の地になるのは、あまりにも。お勉強に時間を費やして、優秀な大学を出て、国民の税金で贅沢と名誉をひけらかす生活をして、そのお仕事が戦争をすることだと思いたくありません。

 

国にも帰れず、助けてくれる国もなく、空港で1ヶ月過ごす人の気持ちを理解できるとは口が裂けても言えませんが、理解する努力は怠りたくありません。私は政治家でもなければ、ただの一般市民ですが、だからこそ考えることだけは続けなければいけないと思います。自分が受ける差別に敏感になることは、他者と自分の状況を置き換えて想像することに繋がると思っています。

 

難民問題を取り扱ったフランスの劇団 Théâtre du Soleil の素晴らしい演目を一つオススメしてこの記事を閉じようと思います。

 

https://www.theatre-du-soleil.fr/fr/notre-theatre/les-films/le-dernier-caravanserail-2006-184

 

1年半のサンガットの移民のためのセンターでのフィールドワークを行ったアイアーヌ・ムヌーシュキンとクルド人。それを受けてエレーヌ・シクソーが書き上げたテクスト。アイアーヌ・ムヌーシュキンと劇団が演劇的、身体的な表現で応えてみせたLe Dernier Caravanserail (Odyssees)。見ていて目を背けたくなる、苦しい場面を突きつけられますが、現実の、取材テープの淡々とした、沈黙を含む緊張感は「今」、目を見開くべき時だと訴えているようです。