初雪。制作も停滞低気圧。

ウィーンに初雪です。色々なネガティブとポジティブと、つまりはわかりやすい人生の波に呑まれていたら、気づけば冬以外の何物でもなくなりました。帽子と手袋が必要なシーズン到来です。ご旅行に来られる方はニット帽、とても重宝します。気温がマイナスになると髪の毛だけでは限界がありますから。とはいえカナダの極寒に比べれば可愛いものです、もしカナダからいらっしゃるなら(そんな人そうそういない)。ただ意外と室内は暖かいので、着脱できる感じに着込むのがオススメです。セーターの下にいきなりヒートテックよりは、一枚外着的な薄手のものを。

 

ウィーンに来て1年以上が経ち、仕事をしない生活も同じだけ。夏頃から朝目覚めてふと、「こんな無駄なことに苦労して時間を費やしている私って馬鹿だな。そう思われているだろうな、日本の同年代かそれ以上の人には特に。私、将来どうなっちゃうんだろう。経済活動の供給面がないって不安になるんだな」と考えることが多くなりました。カナダ滞在時も後半は同じことを考えていました。目が覚めて、日本と全く違う景色をみると「あぁ外国にいるんだった」と気付かされます。不思議なもので、想像より現実の方が手触りに違和感があったりします。

海外生活って想像より「普通」なんです。

 

そんな初雪の月曜日。お昼に先生とのミーティングが入っていました。メインプロジェクトの進捗チェック。特に希望したわけではないのですが、考え事ばかりしているので心配されたようです。すでにこの1ヶ月半で4回はこれについて話しています。先週「停滞したい停滞期間」なので正直アウトプットしたくないのですが…と、ミーティングのキャンセルを申し出たものの「今の状態を説明してくれればいい、私たち(講師2人)だけだし、ノーストレス!」と言われ、まぁそうか…と。

 

そう思ってお昼にアトリエで作業していたら

「kiki〜調子はどう〜?」

まさかの教授登場。えぇ〜聞いてないぜ。チューリッヒにいたのでは??

oooooooooops!

 

というわけで、教授も参加でのミーティング。何を突っ込まれるかなんてわかってましたとも。むしろ自分で自問自答中なんだよ〜だから停滞期間なんです…。もうピャッと時間内に切り上げました。じれったい気持ちはわかりますが、今必要なのは会話ではないのです。ごめんなさい。

 

正直、どの地点を「作品」としてアウトプットするのか。それについて今回はちゃんと考えたくて。思考の始発と終点の前後も含めて、何を摘み出すのか。時空をどう湾曲させるのか、その差異の距離感について考えることが必要だと強く感じています。

でもこればっかりは、上澄みをすくいながら、そっとその膜に触れるまで待つしかありません。そんな気がしています。

 

ビジュアル的なクオリティと思考としての真影だけでなく、その二つが引っ張り合う中点があるのですが、どうにもそのバランスを掴むにはまだまだ修行が必要なようです。

 

なんのことだろう?と思われるかもしれませんが。

これが今の私が勉強していることで、どうにも人に説明するのが苦手です。

 

パフォーミングアーツセオリーの先生に「将来どこに拠点を置くのか」と聞かれました。今はよくわからないのですが、ヨーロッパに拠点を置くにはいささか私には問題がある、と答えました。

 

例えば、10人が集まって「お茶について」会話が始まります。なんの定義もなく、疑いもなく「お茶」といえば数種類ある、「あのお茶」として話が進みます。

 

私はその「あのお茶」の前段階がいつもあり、コップに液体が入った状態でかつ色が付いていたらお茶だろうか。はたまた味と感じられる味覚的特徴があるものをお茶と言っているのか、それとも文化的な場での飲み物をお茶と呼んでいるのか…。その10人の会話に入る前段階を自分の中で超特急で精査し、話に加わるところまで追いつかなければなりません。どこに住んでいていもこの思考回路は同一なのですが、とりわけヨーロッパでは話している場所の文化に重んじるところがあるので、大前提を疑う会話になりにくいと感じています。まぁ島国日本も同じです。

 

セオリーの先生にそう答えると、特大の笑顔で「私も同じだわ」と。

そしてじゃんじゃか哲学書を私にオススメしてくれました。先生、私は哲学者を目指しているわけではないのですが…。笑。興味あるけども。そして「何の集合体をあなたが作品と定義づけるのかわからないけれど、その全てに可能性があると私からは言えるわ」とこれまた素敵な真っ赤なマニュキアで鼻をツンと触って笑っていました。

 

こういうことと向き合っていると、将来ロボットに取って代わられる不安は全くないのですけどね。ロボットのような正確さや予測能力はありませんし、ロボットほど汎用な存在にはなれませんが。

 

疑問の質ってどれだけ柔らかく生きられるかなんじゃないか、とか思います。自分の疑問点がだんだん狭くなったり浅くなったり、時には濁ったりするときに、あぁ私って何かに囚われているんだと感じます。特に今は過去の自分が「自己責任と他人の期待に答えること」に異常なまでに囚われていたなぁと思います。そういう利己的な主軸を持って生きていたので、何が優しさかを理解していませんでした。

 

優しくあることで、世界がフラットに。そしてその滑らかさが、思考を潤滑にしてくれます。怒りほど、瞬発力のある制作源はありませんが、爆弾と同じで、爆風と風速と風向まで測れなければ、その瞬発力を後から評価することはできません。そういう作品はやはりあまり心に触れないものです。

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荒れ始めたデスク。カオスまでのカウントダウン。

 

さて、グダグダ言ってないで、残りの文献読みます。