これは反抗期ではなく自立です。

マイナス6度でひやっとするウィーン。朝から授業を受けて、午後は新しい入居先の大家さんに会いに行き、そして力尽きてデッサンはパスして帰宅。

 

母はひとまず落ち着いてきました。2月に一時帰国するべく、とにかく先延ばしになっているドイツ語試験の日程を決めてきました。ちゃんと受かれば、2月は日本に帰れるし、みんなにも報告できて安心してもらえるし、少し肩の荷もおります。今が勝負。

 

母の入院など知る由もなかった時、ずっと楽しみにしていたパフォーマンスをTQWに見に行ってきました。Meg StuartとTim Etchellsによる”Shown and Told".

tqw.at

 

今年は素晴らしいクラシックコンサートもオペラも演劇も見に行きました。ダンスの公演もいくつか。でもパフォーミングアーツというくくりで、アートピースとして、この作品は本当にエグられました。とてもよかった。ウィーンでは2日間の日程で、オープニングに行ったので公演後のトークも聞くことができました。彼らがすでに全てステージ上で作品として説明しきったことをセオリストがなんだかまどろっこしい、点のずれた言葉で掘り返そうとしていたのについ笑いました。だってMegとTimの「つまんねぇこと聞いてくるな」っていう露骨な顔が非常にチャーミングで。

 

Like boarded up windows, like stone steps, like the sound of voices from a far away room, like the smell of burning, like the way that condensation forms on windows, like searching for something, like searching through rooms.“ — Tim Etchells

 

セメスターメインプロジェクトの中間プレゼンテーションの3日前でした。その時の自分自身の小さなチャレンジにニヤッと微笑んでくれたパフォーマンスでした。MegのI dance. Because it leaves no trace. がさらに私の気持ちをまっすぐに押し出してくれ、そのままプレゼンに挑めました。

 

2年目からはクリティックも厳しくなる…と聞かされていましたが、時間をオーバーしても内容を話きることは出来ませんでした。むしろ今回はあえて、そうあろうと。みんなプレゼン慣れしています。「クリアに詳細にきっちり説明しきる」ことを良しとされます。プレゼンなんて世界共通で、そういうものですよね。

 

でも、私は今セメスターの制作を始めた時から、また1年間の自分の作品を眺めた時に。どうにも「言葉」と「作品」の重量が同量な事に疑問を持ち始めました。私もプレゼンで苦労するタイプではありませんでした。明瞭に話せばいい、と準備をきちんとすれば人前で話すのに忙しくなることはありません。でも全て言葉で納得させられるって「作品」として弱いんじゃないだろうか…そもそも「作品」が私の「言語」のはずなのに。

 

だから、今回は「なんだかわからないけど、話だけ聞いても明らかにならないけど興味がある。なんたるかを知りたい」そういう瞬間。私の作品は作品解説じゃない。というのが裏テーマです。そもそも、に戻ったとも言えます。

 

なので、案の定プレゼンで私が話きっても教授から「もっと説明してほしい」と言われました(いや、いつものことですが)。作品を囲んで先生方から教授からみんなが「それ」を覗き込んで「〜って意味?」「この部分は〜だよね?」「君の背景からきているのか、これは」と。とにかくなんだか子供の、なんでどうして状態で最後はガヤガヤしちゃいました。

 

結局のところ「哲学的で詩的な作品、コンセプトだ」というのが満場一致の最初の意見でした。とはいえ、教授からは「詳細にこれについて書き出してほしい。戯曲の先生と一緒にでもいいから、またはディレクターと一緒にでもいい」と。まだ中間プレゼン、作品もプロットから少し進んだ程度の段階です。これから素材を剪定したり、作品サイズを模索したり。大きく変化する可能性があります。ですが、今回は絶対に、誰かに理解され、伝わるかどうかは度外視して、需要のない、そして供給ではない、それを目指したい。

 

なんだか教授の、みんなの驚く顔にも1年で慣れてきました。笑

 

今はヨーロッパ風に、または教授の作風に寄せないぞ、と言う気持ちがあります。ヨーロッパで評価されたいからここで制作しているわけではないし、教授のコピーになるつもりも、彼女のために作るつもりもありません。これは意外と忍耐がいるなぁということに気がつきました。大学の講師陣は教授のチームだし、いかんせん名前が大きすぎるので、つい彼女に評価されたらいいものなんじゃないか、と言う楽な道へ逃げたくなります。でもそんな学生時代の自己満に浸るためにここにいるわけじゃない。この4年間で批評に強くなりたいと思っています。どこまで必要のないことに引きづられずに、どこまで純粋に頭の中の異次元回路を作品として実体化させるのか。

 

プレゼンを聞いていたクラスメイトから「結局のところ、わかりやすくなんて全くなかったけれど、でもわかった。だからよかった」と肩を叩かれました。しばらくしてから、ディレクターが私の元へまたやってきました。作品を前に「これはこういうことなんじゃないかってランチタイムに思ったんだ。どうなんだい」と。

 

彼は前日、ある生徒のプレゼンを聞いて激怒しました。

「君の努力など興味はない。うまいかどうかなど興味はない。何を作ったか、どうしてか、それだけ聞かせてくれ。経緯を聞きたいんじゃない、何を決定したかだ」と。

 

2年目。無言やただの褒め言葉はもう卒業です。