You go girl!

数日ぶりに家で夕食を作り、ドイツ語のお勉強を再開しました。インスタのストーリーにちらっとそんなことを載せたら、友達から”You go girl!"と返信がありました。

 

彼女は若干二十歳だけれど、私の尊敬する同期です。二十歳らしい可愛らしさと、自分を見つめられる客観性、そして見返りを求めない優しさと実直さ。彼女が私に「kikiは私たちを全面的に信用してくれている。だから私もそうありたい。あなたは私にいつもありがとうと言うけれど、それはあなたがそうさせてくれるんだよ」と最近そんな言葉をかけてくれました。もう一度言うと二十歳です。私はただのクソ生意気な小娘でしたよ二十歳の頃(むしろ20代)。

 

年齢差を感じない、というのは本当です。それはドイツ語がわかるようになって、なおそう思います。文化や分野ごとの知識量の違いこそあれ、年齢が人を賢くするわけではないんだということを身をもって感じています。33歳でそんなことも知らないのか、とも言われないし、若いから知らないんだ、とも言いません。

 

先日の批評家の先生のお家での会話(というか議論)の中で、自分の中のファンタジーがどう芸術として表象されるのかと批評の関係についてみんなで話していました。

 

私たちのクラスはとにかく制作中のものについて、よく話します。教授陣とはもちろん、クラスメイトともオープンに話します。「いい」か「悪い」かではなく「どうして」なのかについてよく話します。先生のお宅にお邪魔した時に一人だけ違う大学の違う専攻の子が参加していました。彼はプロダクトの勉強をしているのですが、クラスは40人、プレゼンは1セメスターに1度だけだと言っていました。だから私たちの「話し合う文化」にとても驚いていたし、必要性についてしきりに質問していました。

 

私たちの見解は一致していて「違う観点の意見を聞きたいから」であり、批判もすれば背中を押すこともあります。でもだから制作が進むというわけでもないのですが。最終的に決める作業はいつだって孤独なので。でも自慰行為が芸術でないとすると、やはり媒介する社会や身体が必要です。習い事ではない、これで生きていくのであれば、少なくとも「議論が広がる」何かである責任を負うべきだろう、というのが先生から出た言葉でした、特に私たちの専攻に関しては。私もそう思います。私の手から離れて、それについて人が話し合っている瞬間に、やっと「それ」は少しだけ意味を持つように思います。うまいとか綺麗とか、そういうことではなく、もちろん。

 

ドイツ語圏らしくポストコロニアルについてもよく話し合います。1つのことに何時間も飽きずに、それはそれは。

 

今日は卒業制作をしている子から昨日電話があって、お手伝いしに行ってきました。と言っても隣で喋っていただけですが。彼はそれが欲しいから、と。そこで私の中間プレゼンでの話になりました。言葉で納得を得たくない、作品でコミットしたいという話とそれに対する批評について話したら彼も「上手なプレゼンなんて頻繁に聞くよね。でもそもそもの作品、美学に興味がなければ、どれだけ流量にコンセプトについて話されても右から左だよ」というのが共通の見解でした。

 

プレゼンで興味を持ってくれたディレクターの先生は、よく私が不在時に本をそっと私のデスクに置いていきます。いつも彼の本棚から1冊。ヘビースモーカーらしく、タバコの匂いが染み付いた本は、手に取るだけで彼からのプレゼントだと気がつきます。先日そう言ったら笑っていましたが。

f:id:kiikiii:20181218071500j:plain

多和田葉子さんのTALISMAN。またまた、しれっとヒントを置いて去る、粋な先生です。ドイツ語なので、語学書に飽きたら開くのに罪悪感も薄め。そして面白い。語学書より先に読み終わるかもしれません。どう考えてもテストとはかけ離れたボキャブラリーが培われそうですが。笑

 

追記:ちなみに多和田さんのインタビューで海外生活者にとっても刺さるものを一つリンクしておきます。ドイツ語でのインタビュー(日本語訳付き)が面白かったです。ぜひとも。

www.newsdigest.de

 

そんな感じで、You go girl!

日々をこねくり回して、眺めて、ドイツ語の海に溺れながら、その水面下の光で日光浴。やっと1年2ヶ月。ドイツ語が好きになってきました。