被害者ではなく加害者。

3月11日午後2時46分。

私はいつもこの時刻をどう過ごしていいのか分からない。日本にいれば黙祷の号令にしたがって、そっと目を閉じ祈るが、その祈りも半分懺悔に近い。

 

私は東北に親戚も親しい人も住んではいなかった。でも当時日本に、特に東北から関東に住んでいた人にとっては身体を貫いたあの揺れとあの光景は忘れることがないだろうと思う。私がその一人だ。

 

私はその日、深夜に仕事があって、日中は自宅に居た。身の危険を感じる揺れに、慌てて窓を開け、2度目の揺れで外へ出た。平日の日中に家にいる人はそう多くなく、近所の同じように外へ出てきたお婆さんと驚きと恐怖を共有した。これはただ事ではないと思い、家に戻りテレビをつけたら東北地方で地震があったとどの局もニュース速報に変わってた。そのライブ映像は、そのあとに起こる津波など想定していないので、津波が押し寄せるその瞬間、人が流されていく様まで映し出していた。何が起こったのかよくわからない。人も車も家もジオラマのように流されていき、千葉に映像が切り替わればタンクが燃えている。

 

東京の街は夜を取り戻したかのように、目を差す光が姿を消した。原発事故の重大さに気がつくまでに数日がかかった。それでもなお、電車は動いているし、家がある私たちは働くしかない。夜の地下鉄の中で、ライトの眩しさに罪悪感を爆発させ嘔吐したのを覚えている。まるで資本主義という名の味のしない酒を大量に飲みすぎたような気分だった。その罪悪感は未だに消えていない。

 

それから半年もしないうちに、私はデンマークで暮らしていた。

海から吹きつける突風を利用した風力発電のプロペラが回るその光景を浜辺でじっと眺めながら、国の規模が違えど、でもそういう理由じゃないことだけは足りない頭でゆっくりと理解し始めていた。再生エネルギーやエコロジーに対するデンマーク国民の取り組みは現実的であり、生活に根ざしている。実態があるその姿は、まるで自分が亡霊のようにすら感じたもので。

 

私は、未だに原発が稼働し、何が安全で何が本当の情報なのかを知りえない、そういう空気を作り出している加害者だろうと思う。原発に対するすべての情報が操作されている、嘘だ、とは思わない。現に安全性について研究している研究者の先生のお話を聞くこともあったし、その人が嘘をついているとは思わない。でも福島で起こったことはそういうことじゃないような気がする。科学的な絶対が自然に負けることはある。政治や社会について、興味も意見もあるけれど、それ以上に日本国民の声は政府には届かないということも冷めた部分で認めてしまっている。だからデモに参加したり、政治活動に参加しようと積極的に思えない。それがそういう空気を押し流している悪循環を生んでいるのだろうが、それでも砂に針を立てるようなもので、私は違う方法で自分の加害者としての罪を滅ぼしたいと思う。

 

Marina abramovicのMoMAでのドキュメンタリーをふと見返していて思った。

欧米で福島を題材にするアーティストが私は基本的に好きではないし、大抵の場合は憤りと怒りさえ覚える。というかそういう趣旨のエッセイをファーストセメスターで突きつけて、ドイツ人たちに物議をかもした。でもその気持ちは変わらない。アーティストによくいる、批評家ぶって社会を風刺するのに他人の題材を扱う作家が私はそもそも好きではない。彼らには災害もなければ、安全な家があり、大抵は笑えるくらいに平穏な家庭に育っていることが多い。自分が傷ついたことがないから、皮膚を切り裂く痛みがわからないのだろう。私は生涯ナチスを題材にすることはないし、それにはそれ相応の理由と責任が必要だ。Marinaは自身の身体を虐待的に晒すことで、人が目を背けたくなる光景を私たちに提示してきた。痛みを伴うその作風は、私にはまだ飲み込みきれない部分も多い。そして63歳、MoMAでの作品では、ビー玉のような眼差しで自分の目の前に座る観客を見つめた。それは壊れた家や荒れた土地など見せなくとも、その人の中にある痛みをとり出せるだけの力を持っていた。

 

私が3月11日をどう過ごすべきなのか戸惑うのは、今も刑期を終えていないからだし、そのことがいつか終わるのかもよくわからない。ただ少なくとも、日本人というだけで震災の被害者のように扱われることがあるが、むしろ私は加害者だから…だから何を自分のことのようにも言えないけれど、でもそれは紛れもなく私の問題だ。

 

ただ一つ、福島は被災地だった。

今も爪痕は残っているし、まだ解決されていないことも多い。日本中で原発問題に何らかの明確な回答が得られるまでは、そのシンボルとして何年たっても被災地と呼ばれるかもしれない。福島での出来事を、次の世代の教訓にし、問題は解決しなくてはならない。だから被災地としての責任を負ってくれているのだろうと思う。でも3月11日に生まれた子供もいれば、8年前まではお誕生日をお誕生日として曇りなく祝っていた人たちがいるし、願わくば今年も美味しいものを食べて、あなたの生に感謝できていることを祈るばかりだ。もう誰もこれを理由に傷ついては欲しくない。