大学入試、あれから2年。

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気がつくとテーブルの上がコーヒーだらけになる自堕落な机でリサーチ中。そろそろ歯のホワイトニングについて真剣に考えるかコーヒーを控えるか…な夜8時です。


今週は私の在籍する専攻の入学試験が行われていました。

1次はポートフォリオ、モチベーションレター、批評文、1次課題の提出。1次に通ると2次は3日間の3つの課題制作と面接、そして最終プレゼンテーション。私も同じ入学試験を受けましたが、あれからもう2年。光陰矢の如し。

 

私たちの教授は年齢も60代と、この先長くてもあと数年しか教壇を取りません。浪人して何年か経ってしまえばもう同じ教授から学ぶチャンスは訪れない。そんなプレッシャーも相まってか、最終プレゼンで泣き出す緊張状態にある受験者もいました。

私たちの専攻では最終プレゼンとポートフォリオ審査はスタジオ在籍の学生に公開されています。世界中から受験に来るので、私たちもポートフォリオやプレゼンを聞くのを楽しみにしています。そういう意味で、最後の結果発表のあと、提出物をピックアップしにくる受からなかった子たちが泣いているのを見るのは中々に辛いものがあります。

 

 

オープンアトリエから訪問していた、私と年齢が同じロシア人の彼女。今回は残念ながら受かりませんでした。涙が止まらない姿を見ていて、辛かった。30代でもう一度学生に戻ろう、学ぼうと決めるだけでも相当の勇気が必要です。それまでのキャリアをストップして、それこそ結婚や出産などのライフバランスを考えると決断は簡単ではありません。そんな勇気を振り絞って来たのに、ドアが開かなかったのだから、それはすぐには心の整理はつきません。

 

結果発表の後、合格者もそうじゃない子も飲みに誘うのが私たちの伝統です。私が合格した年も今は一緒に勉強している彼らとビールを飲みに行きました。夏の暑い日でした。ウィーンはもう5月も半ばにさしかかるのに、コートを羽織る気候で、今年は少し強がってテラスのあるいつものレストランへ行きました。向かいに座った前述したロシア人の子ともう一人。40歳のグラフィックデザイナーであるその人は、ただただ「これが最後のチャンスだった」とこぼしていました。

 

飲み会に行く道すがら、同級生たちと合格しなかった人に声なんてかけられない、でも話を聞くくらいなら同じ分野に興味を持つ人同士でお酒くらい飲めるかな、と少し緊張。でもやっぱり泣いているその姿に、ただ肩をさすってあげることしかできませんでした。たかが大学受験、されど大学受験。

 

教授は今回、受験生たちに最終プレゼン後にとても大切な話をしていました。毎年のことですが、私たちの専攻の受験者は半数以上がすでにキャリアのある、またはBAやMAですでに学位を取得した人たちです。20代前半の学生ももちろんいますが、本人たちも語るように早くても25歳以上の人が適している分野だというのは、一理あります。その上、今年は年齢も20代後半から40代。併願の一つではなく、大本命として受験している人が多かった。

 

「とても集中力のある3日間の制作でした。それぞれが力を持っていると思います。ですが、私たちは毎回非常に少ない席しか用意できません。一つには、制作環境のクオリティを保つためです。一人一人に十分な時間を費やし向き合うためにはそうせざる終えません。さらには、劇場芸術の分野は狭い世界でもあります。学業を終えた後もなお席は限られているし、予算の限られた中で将来の居場所を見つける必要があります。だから私たちは、ポテンシャルと確かな意志のある、一緒に学べる人を選びます。ですが、だからと言って、それ以外の人に才能がないとか、未來がないという風には思わないでください。あなたたちは次の世代です。新しいことを沢山作り出していくだろうと思います。私たちの世代にとらわれすぎないでほしい。ウィーンには他にももう一つ芸大があります。いい大学です。そしてウィーンだけではなく、ドイツにもフランスにもスイスにも素晴らしい教授が居るスタジオがあります。ウィーンは確かに劇場芸術を学ぶのにいい街ですが、可能性は他の街でも同様に沢山あります。そういう可能性があるということを忘れずに、続けて欲しいと思います。セレクションについて、それだけ伝えたいと思います」

 

私たちは毎年、ポートフォリオ審査が始まると「どうして私は受かったのだろう」と言い合っています。そしてその理由はやっぱりよくわかりません。先生たちにはポテンシャルと作家性があるかどうかだと言われますが、それすら教授が言うように答えではありません。つまりは見合いのようなもので、お互いに補い合い高め合えるパートナーかどうか、それだけかもしれません。

 

私が知る限り多くのヨーロッパの芸大では技術審査は存在しません。もちろん、デッサンやドローイング、空間把握の課題が出ることはありますが、技術を見ているのではなくセンスを見ている。どのような視覚的フィルターを持っているのかを見たいと教授自身も課題を与えるときに話しています。大学に入学してからドローイングの授業があり、技術を学びます。逆にすでに揺るがないものを持っている人が選考に漏れるのはここに理由があるとも聞きます。大学は学ぶ場所です。これから学生に戻ってどんな伸び代があるのか、何を理由にまた学びたいのか、それが明白でない場合は、もう技術や経験がある人よりはチャンスを与えるべき人に与える。国立大学の使命なのでしょう。

 

ロシア人の2人が「これが最後のチャンスだった、人生が変わるかどうかをかけていた」と言っていたけれど、返す言葉がありませんでした。ここは魔法のスタジオではありませんし、世界トップのスタジオでもない。夢が叶うか、人生が変わるかは結局本人次第です。でもそれでも、実際に私は人生のゆっくりとした変化を体感している。魔法などかかっていないけれど、苦しくてもがいているけれど、別に自分の才能など知りもしないけれど、そういうことではなく、ただ自分自身と真剣に向き合える今の時間が私を何か違う道へ押し流しているということだけは感じています。

 

仕事をしていると、日々が目まぐるしくて、いつの間にか「作品」と呼べるものが生まれずにクライアントに支配されるあの感じから、彼女たちが休憩したい気持ちが痛いほどわかります。でも教授が言うように、場所ではなく自分をどこまで信じていけるかを少し落ち着いたら思い出してくれたらなぁと願うばかりです。