Stammtischな夜。

週の初めに友達からAbschiedの招待が来た。簡単に言えば、お別れパーティー的な誘い文句で、いったいどこに行くんだろうと首を傾げていた。

ちょうど別の、でも共通の友達から同じ日にコーヒーかワイン一杯でもっていうお誘いもきていたので、じゃあそのAbschiedの場でみんな会うからそこでもいいかと思って、彼女にそう連絡してみた。

 

みんな同じように仲がいいので「そうだね!」の一言で済むかと思えば、

じゃあ別の日に二人で会える?もしくはその2時間前くらいに二人で会える?とちょっと物々しい返事が返ってきた。何か大事な話でもあるのかな?先週、劇場であった時はそんな様子なかったのに?とこれまた首を傾げながら、それならお別れパーティーの2時間前に二人で飲み始めようということで話がついた。

 

約束の時間に再会して(と言っても1週間も空いてない。笑)、グラスワインをそれぞれ頼んだところで、彼女は一呼吸して切り出してきた。

「kiki....ヴェネツィアで何があったの?もう大丈夫?」と。

 

これには頭をテーブルに打つ勢いで驚いた。

 

私が勝手に癇癪を起こし、一人で落ち込み、一人で輪を外れただけで、この個人主義西欧社会において、あれからすでに1ヶ月も経っているのに、まさかそのことを心配してくれていたとは!というか、一言も彼女には愚痴ってすらいないのに。

おそらくは、いつもニコニコと輪の中でぼんやりしていた私が、すっと姿を消したことがさらさらと風の噂に乗って、どうして、なんで、がクラス中の耳に届いていたのかもしれない。そして彼女をそわそわさせてしまったよう。

 

このことについて、ドイツ人の彼女に説明するのは少し気後れしてしまう。また「でも話そう、議論しよう」そう言われたら、大好きな彼女との間に何かが横たわるかもしれない。そんな苦笑いを浮かべて「あ〜もう大丈夫だよ〜」と言った私に、彼女は否!

 

そして驚くことに、ペラペラ、すらすらと私のこの2年間の鬱憤を代弁し始めた。すごい勢いで。固有名詞をバンバン出しながら具体的に。一度も言ったことないのに、それは的確に私を日本人的枠でしか扱ってくれない一部の教授陣を被弾。それはもう、驚きとともにもはや感動を覚えるほどで。笑

 

びっくりした私が、なんでそんなにわかるの!と声をあげると「わかるよ、だって私たちはもう家族みたいなものだし」と泣かせようとしてくる(してない)。降参して、そうなんだよね〜、でも少し気持ちの整理もついて、ちょっと諦めもついたんだよね。そう私が打ち明けると、

「うん、みんなに説明したり、議論する必要なんてないよ。そんなの嫌だよね、だから今日どうしても二人で話したかった。でも、嫌なことを我慢する必要はないから、嫌だって言っていいんだよ。そしたら理解されなかったとしても、相手だってもう嫌なことはしないはず」

 

彼女が心配していたのは、私が一人で抱え込んでいることだった。

それと同時に、みんなの議論の対象になりたくない気持ちもわかると。だけど、相手に直接嫌だと伝えることも大事だから、言ってもいいんだよ。そう諭してくれました。

 

なんどもこのブログに出てくる彼女は、私の同期。年が一回り以上離れた私に距離を作ることなく、初めて会った時からとてもフラットに接してくれます。彼女の精神力にはいつも本当に感心させられるし、とても尊敬する友達。

 

一通りその話が終わると、安心したのか、そこからは私が参加しなかったヴェネツィアでの夜やクラスでの喧嘩の話を聞き大笑い。どうも私が参加しなかった夜に教授陣と学生とごっちゃになっての喧嘩があったようです。いつも気丈な彼女が泣いてしまうほどの。でもそれは一夜の話で、そこを過ぎたらもうみんな普通。それを彼女は「初めての家族喧嘩」と表現していました。言い得て妙。

 

恋の話や仕事の話、大学のこと、最近読んだ本に、今の生活。

ガールズトークはとどまることを知らずに、お別れ会には二人して遅刻。

でも主催した本人に「で、どこ行くの?」と聞くと「1ヶ月、ベルギーに仕事で」と言われて、おいおいって。なんでもいいから、みんなで集まる理由が欲しかっただけ。そう笑っていました。

 

気づけばいつものレストランのいつもの席、いつもの顔ぶれで、いつもの飲み物で。

そんな「いつも」が今の私にはとても大事なんだなぁと思いました。

 

小さな絶望と、言い表しようのない幸福感との間で「いつも」忙しいけれど、そうやって自分の感情が揺れ動いているうちは、まだまだ大丈夫な気もしています。

 

前回の記事を引用してくださった方のブログを読んで、不思議とお会いしたこともないのに心をそっと撫でてもらったような気がしています。私のために書かれた記事ではありませんが、もちろん、でもありがとうございます!

 

国籍や人種、ナショナリティからくる、ひとつひとつの小さなトゲのような違和感は海外生活や違う文化の人々と生活していく上である種、避けようもないことなのだろうと思います。日本に住んでいたって価値観の違いはありますが、私が日本人同士の場合と違うなと思うのは、異人種間ではそもそも「この気持ちを、私のやり方を許して、話してくれそうな人」を探すのが簡単ではないということです。

 

揉めた先生、教授もドイツ人とスイス人ならば、理解を明確に示してくれたのもドイツ人の友人でした。何人だからどう、そう括れない。「ドイツ語文化」と嫌なことをひとくくりにしかけていた私の目を覚まさせてくれた。不思議と次の日の朝、そのことを思い返して泣きそうになりました。エモーショナル。エモい。違う。

 

どうしてここにいるんだろう。

いい時も悪い時も、自分自身にそう問いかけては答えもなく萎んでいきます。サルトル的にいえば被投と投企を行き来しているに過ぎないのですが。とはいえ、私が所与の自分に疑問を持ち、実在としてあろうとすることは、人間的なことなのかもしれません。

そう思うと、まぁ、これまでも同じことでグダグダ悩んできましたが。これからもグダグダと悩むのだろうなぁと思います。そんなグダグダを読んでくださっている方にも感謝御礼申し上げます!すいませんねぇ、いつも。笑

 

※タイトルのStammtischはドイツ語で常連さん用のテーブルを指します。コンサバティブな社会を風刺してネガティブにも、言葉本来の意味合いとしてポジティブにも使われる言葉でもあります。一口メモ。