well-beingを幸福と訳せない一人称。

祝日、語学学校がない朝、とてものんびり。

ふと、ブログの下書きなるものを開いてびっくり。独り言すぎる内容が塵も積もれば山となっていました。つい最近の出来事と重なるような2月の下書きを見つけたので、公開してみます。ブログ内タイムトラベル。

 

 

 つい先週、友人から「将来のこと考えてる?」と聞かれて、心の底から、今のことしか考えてないなぁ〜と答えました。そういえば、ウィーンで勉強するようになってから将来のことを考えなくなりました。

 

それこそ、2年くらい前まで、自分の将来についてばかり考えていました。

将来について考えるのが趣味かのごとく、考えていました。

自己愛の塊かなと心配になるくらいには、自分の人生について考えていました。

 

何がしたいのかと言われると、作りたいものはあるけれど、それをどう形容すればいいかわからない。それがどうゆう職業なのかも、どこで、誰と、どうやって叶うのかもわからない。そんな、どうしたらいいかわからないことより、とりあえず生活しないといけない。仕事してお金稼がないといけない。いや、でも時間は有限、人生は短い!自分が考えないで、誰が私のことを真剣に考えてくれるんだ。誰もいないぞ!と30代を年表にして何が出来るか書き出してみたり。それを繰り返していました。字面にすると、ちょっとイタイ感じですが、社会に対する不思議や不満、とにかく人に話せないことをひたすら書き出していました。「私たち」と言う主語で話の大部分が推し進められていく中で、「私」の言葉を探していたのだと思います。

 

当時の自分を思い出した時にふと、どうして今の自分が将来のことを考えなくなったのかに思い当たりました。

 

 

今の私は、ちゃんと今を生きているんだ、自分の言葉で。

  

今の私こそ、将来について悩んだ方が良さそうな感じなのに。はたから見れば、30代で大学で勉強している私は「遅れをとった人」かもしれません。成功や収入や肩書きをゴールにしている人からしたら失敗例だろうし、結婚や出産に重きがある人にとってもまたそうだろうなぁと思います。

 

多分実際にそうなんだと思います。私は昔から同年代の人より5年くらい後ろをゆっくりと進んでいる感覚があります。流行りに乗るのも遅ければ、何かを習得するのも人の2倍以上時間がかかります。家でのあだ名は「トロ子」でした。トロいから。

 

よく覚えているのが、子供の頃に一輪車ブームなるものがありました。私は元来の運動音痴から、みんなが数日で手を離して乗りこなしている中、いつまでも手すりの前でアイドリング。やっと私が一輪車に乗れるようになった頃には、周りのブームは過ぎ去っていました。そこでマイペースさを発揮するのがトロ子。そんなことを気にもせず練習していた私は、結局は一輪車の大会に出て、子供ながら一輪車教室で先生をすることになり、テレビに出演。子供の頃にテレビに出ると、一瞬人気者になります。一瞬ですけど。テレビバブル。笑

思い出しても、あんなに周りとの温度差を感じたことはない体験です。そして、人の期待や評価って、随分いい加減なんだなって子供ながらに思いました。テレビに出たくて出たわけでもないのに、それについてはチヤホヤされる。それまで一人で練習している私をバカにしてたのにって。こうやって捻くれたんだな。

 

これまた話がずれるのですが、私の幼馴染も私の比じゃないマイペースさんです。放課後はいつもその子の家にお邪魔していたのですが、私たちは同じ部屋の角と角でそれぞれ一人遊び。母が迎えに来ると部屋の隅っこで一人で着せ替えごっごをひたすら繰り返す娘。何故か片付けだけは幼馴染と一緒にして「楽しかったね、明日も遊ぼうね」と約束して別れる。母達はその光景が心底不思議だったと後に聞かされました。

たまに一人で出来ない遊びは一緒にしてましたよ?野良猫を1日尾行するとか。猫の鳴き声を録音して歩くとか。二人で勝手に遠足に行くとか。遊びが独特ですが、この幼馴染、今は細胞研究の最前線、アメリカの病院で医師として研究していますので、そういうことです。どゆこと?一緒にやりたいこと以外は、一人で没頭する=一緒に遊ぶ だったんです。

 運動会でも、その幼馴染と二人で褒め称えあっていました。「kikiちゃん今年は転ばなかったね!すごいね」「Yちゃん、今年は去年より速かったね、すごいね!」って。ちなみに二人とも駆けっこは万年ビリでした。笑

 

これじゃあマイペースは改善されません。

 一番身近にいた幼馴染との日々がそんなんですから、誰かに合わせる必要性もなかった。輪をかけて一輪車テレビ事件で「多数が言う事が絶対じゃない」と子供ながらに思ってしまった。そして、そのまま大人になった。

 

でも大人になったから、社会の流れを考えるようになって、少し流されて。

自分のペースではない早歩きで頑張ったこともあります。そうするとだんだん「今」が自分と少しずれてしまって。今と将来が乖離してしまった。だから紙に書き出してでも将来について考えないといけなくなってしまったんだろうなぁと思います。そしてそういう時期はこれから先、また流されたらやってくるでしょう。

 

今は、毎日が必死すぎるのもありますが。違和感なく、今と将来がミルフフィーユ状に重なっている感じです。もはやその境界線がよくわかりません。ただマイペースに今を生きているだけです。

 

なんでこんなことを考えたかというと、冒頭の友人の質問と、もう一つはwell-beingについて考えていたから。WHOの「健康とは何か」の定義として出てくるのですが

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

簡単に要約すると、健康とは疾病がない状態ではなく、肉体的、精神的、社会的に良い状態(well-being)ということなのですが、日本語では幸福と訳されることもあります。

私はあまりこのwell-beingを幸福と訳すのが好きではないのですが、それがどうしてなのか考えた時に 

 

ここまでが2月の下書き。今回一切手を加えず。ここまでで終わっていました。

 

どうして2月の私はwell-being=幸福じゃないと思っていたのだろう。

今の私の言葉では、良い状態の数珠繋がりが幸福の輪ではないないと感じているからかもしれません。

 

間違いなく、ここ数年の私の毎日はずっと挑戦です。慣れたことや出来ることではなく、出来るかわからないけれどやる事を消化していく日々です。第三者目線であれば精神的には追い詰められているし、社会的にはお金のない学生で、ゆえに肉体的に満足かと言われればそうでもない。寝る時間を惜しんで、我慢を重ねています。「良い状態」とは程遠いかもしれません。

 

でも私は幸せです。幸福がwell-beingなのであれば、私は良い状態なのでしょう。

それは私個人の(社会的にも)よくない状態を、よしとしてくれる人が周りに沢山いるからだと思います。今週の頭にアトリエで会った友達に「kikiからは毎日、毎週、成長っていうのを感じる。それはすごい事だ」と言われました。主にはドイツ語についてだと思うのですが、目に見える形で成長していると肯定されると、何かが出来ない私が昨日の私になって、今の私は「何かが出来る明日の私」にグレードアップされた気分です。どちらもただの私なのですが、嬉しい。シンプル。笑

 

もしかしたら2月の私はこのwell-beingの概念が、精神的、肉体的、社会的に同じ比率で均等である事だと受け取ったのかもしれません。そして、その事に違和感があったのかもしれません。

まぁ、間違いなく、ちょっとストレスが大きすぎて、体調をずっと崩してはいますので、もう少し落ち着きたいという本音はあります。

 

でも、辛い事や苦しい事でも、それを心身両面で受け入れてきた時間を持てて良かったと思います。知識や情報では得られない、形容できない大切なものを私は自分の人生に招き入れる事が出来ました。日本でせっせと考えていた私の将来リストには一切ない項目ですが、私の人生において一番大切な事のような気がしています。今は。

 

well-beingは国際機関が、共通概念として定義しているものなので、この場合も主語はWeなのでしょう。そして私は今、私の人生を「私」を主語に生きているので、きっと私の幸福と私たちの幸福がイコールに結びついていない、ただそういう事なのかなぁ。

 

一つ大事な事は、国際機関が包括するWeには私の普通が普通じゃない人が多く含まれているという事です。私は最低限の暮らしが営なめているから、それを土台に良い状態について考えているけれど、最低限の暮らしを良い状態と指す人々が沢山いるという事です。

 

こんな話になっちゃうから、2月に途中で放棄して、下書きに眠っていたのかもしれません。深夜のラブレターは伝わらない。そんな気分です。