2時間日光を浴びて熱を出す。

今日は曇り空で風の強いウィーン。

外出制限が出てから、天気の特別いい日を選んで外出するという贅沢を覚えた。それと同時に、その不自然さも気になるところ。昨日の夕方久しぶりに雨が降っている様を眺めて、雨の中を歩きたい気持ちが芽生えた。風の強い日に目を細めてちょっと憎らしく思ってみたいとも思う。

 

日が伸びて、夜の7時でも十分明るい。

去年の今頃は、気分転換に、公園で友達とよくおしゃべりしていた。去年の今頃、誰と何をしていたかを思い出すと突然、切ない気持ちになる。

 

でもそれもあと1日である。

4月30日を最後に外出制限が緩和され、私は友達とソーシャルディスタンスを保つことを条件にまた会うことができる。精神的に寄り添うために、身体的な距離を受け入れる生活の中で生きてみるのだ。

 

今日、ふとZoomで授業を受けながら思ったのだけれど。公衆衛生を最優先にした場合には、私はこのデジタルコミュニケーションを容認しなければならないという暗黙の世界に取り込まれてしまった感があるのだ。色々と仕方がないので、デジタルコミュニケーションにケチをつけてはいけない空気に少し息が詰まりそうになっていた。

 

元来、メールというものが好きではない。

電話や手紙と違って、読む前提で送られてきて、返事が来ることを強要されている感じがどうにも窮屈で好きじゃない。メールよりもメッセージアプリはもっと好きじゃない。一方的な問いかけに答えるか否か。選択の自由が欲しいものだ。いつの間にそれがなくなってしまったのか時々考える。

考えるけれど、人恋しい。結局、特に違う街と違う国にいる友人とのツールとして、これまた容認して受け入れている。けれど、相手がどう思っているのか気になる気持ちは捨てきれないのは、相手も不自由に思っていたら逆に気が楽だという矛盾をどこかで期待しているのだろうと思う。

 

私は仲の良い友人で、それを許してくれる人とは会話をすることにしている。

声のトーンから、文字にならない今を感じることが出来て安心するし、その安心を基準にどんな話をしても良いか考えられる。声が疲れていれば、たわいのない話をして。元気で、はつらつとしていれば、何か良いことでもあったのか聞きたい。ちょっと勢いもあれば、議論もありだ。でもそれを「既読」と言うサインを頼りには、私には出来ない。これが不思議なことに、デジタルで顔が見えても「既読」と同じような違和感を感じる。顔を見ているから言える、とはならない。電話よりも、違う場所にいる相手の姿がはっきりと浮かび上がるので距離を感じてしまうのかもしれない。

 

デジタルには比較的明るい自分が、こういう気持ちを常に抱えているのが少し不思議でもある。ただ、例えば回線に香りをのせて届けられる未来が訪れても、味すら疑似体験できる技術が開発されても、私は身体的距離と経験を圧倒的に支持すると思う。そこに便利さを感じることはないだろうとも思う。そもそも便利に生きたいとは、そんなに思っていない。

 

だからおととい。天気の特別良い日に公園で2時間日光浴がてら友達と長電話して。その夜熱を出した自分の身体の方が、私には大事である。頬を刺す西日の熱さを、今日も思い出せるけれど、Zoomで見た友達の顔はすぐ忘れてしまう。

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インターネットで目にしていたものでも、こうやって目の前に貼り出されるとインパクトは大きい。なんだ、現実か。と、思わされる。

 

デジタルは土足で私の生活に入ることができるけれど、足跡は輪郭を持たない。

ということは、私がここに何か書き残そうとするこの行為の根源は一体なんだろうか。考え事が多くなったので、結局ブログに新たなタグを作って、そのうち整理されたり、でも出来なかったりして続けてみようと思う。