#black lives matterに寄せて。6歳の私の友人。

この3日間、アルバイトに行ってもお客さんがいません。店長もこんなことは、この数十年で初めてだと驚いていました。コロナ不況でしょうか?多分この数日に関しては違う理由があります。

 

#black lives matter

 

このハッシュタグとともに、多くのソーシャルメディアで真っ黒のスクリーンを目にしていると思います。ここ、ウィーンでも大きなムーブメントとなっています。今日の夕方、デモが行われます。

 

どうして、何万マイルも離れたヨーロッパで賛同したデモが起きているのか、日本に暮らす人には不思議にうつるかも知れません。私は、この状況からキング牧師の言葉を思い出しました。

 

"In the end, we will remember not the words of our enemies, but the silence of our friends."ー結局、私たちは敵の言葉ではなく友人の沈黙を覚えている。

 

時々、ここでクラスミーティングが途方もなく長い!と言う愚痴を書きます。笑

理由はとても明白で、全員が意見を述べるからです。たとえ誰かが先に言ったことでも、自分の言葉で、繰り返しになろうとも発言します。発言することが、出席した責任だとみんなが考えているからです。手を挙げた多数決は行われません、全員の意見を言葉で聞き終わって、それが多数決という認識です。

 

今回のウィーンでのデモには、私の友達のほとんどが参加しています。

私はアルバイトのシフトを飛ばすわけにもいかないので、筆で参加することにしました。身体的アクションの持つパワーには劣るかも知れませんが、沈黙しない、そう思い昨日facebookに英語でポストしました。そして、ここで、日本語の上で、もう一度書いています。なぜなら日本語で書くことにも意味があると思うからです。

 

あなたが日常で受けている差別は果たして個人的問題だけだと思いますか?私は多くは社会的構造が引き起こしている、そう感じることが多いです。自分が差別的だと思う言動や行動を受けた時に、相手が果たしてどこまでそう理解しているのかわからない、そう感じることが多いから。相手にしてみたら、その行動も言動も、その人にとっては、今まで社会の中で容認されてきたことで、問題意識がない場合があります。そして、人間というのは不思議なもので「類は友を呼ぶ」かのごとく、容認されているグループの中で生活してしまうものです。

 

私も自分に対する自戒として、そういう言動を自分がしてきたと言う認識があります。日本で暮らしていた時、自分が誰かに「結婚したくないの?」と聞かれても「結婚したいですか?」と自分が聞くことも、センシティブだとは理解していても差別的だとまで理解していませんでした。でも外で生活する中で、誰一人としてそんなこと聞いてこない環境に身を置いた時に、あぁ私は誰かを無意識に傷つけていたし、ジェンダーに対する意識が著しく低かったのだと反省しました。でも当時の自分の生活圏でそのことを指摘してくれる人はいませんでした。相手から抗議されることすらありませんでした。私は沈黙の上にあぐらをかいていたのだと思います。

 

こういうムーブメントは、政治活動が好きな人が理由を見つけて行っていると思う人がいたら、「こういうムーブメントぐらいしか、そういうコミュニティに届かないから行うのだ」とお答えしたいです。誰かが命を落とした後の抗議活動など、そんな手遅れで悲しいことに嬉々として参加などしたいわけがありません。本来は、最悪の事態になる前に平和的解決をする機会が必要なのだから。

 

私がFacebookで日本語の投稿が多いのは、明らかに日本人に届けたいという衝動からです。英語を話す、もしくはドイツ語でコミュニケーションをとる、私の今の環境の人たちとは、すでにとてもナチュラルにそういう問題意識を共有できていて、反面、日本の友人とはそれが出来ていない。だから伝えてみたい。そういう思いと常に戦っています。私も日本でごく一般的な義務教育を受けてきたので、そういう私の行動が、うるさく、めんどくさく、海外かぶれにうつることも十分理解しています。でも、昨日も書いたように、そんなことで保身に走り沈黙する自分を卒業したいのです。

 

私は昨日、Facebookにこう投稿しました。

私が何を言うかより、どう言うかの方が重要である、と。自分の差別体験をつらつらと書き連ねても、結局それに反応し一緒に戦ってくれる人は、もうそういうものと向き合う耐性のある勇気のある友人たちです。私は日本の友人たちにどうしたら届くのか、考えた時にポジティブに書くことを選びました。現実を恐れず、本当は向き合い沈黙を破って欲しいです。でも、私が日本という国の文化と国民性を知っているからこそできるアクションもあるのだと。私たちの世代からでも積み重ねて、日本もいつか、勇気のある国になるのだと、そう信じています。

 

私の6歳の友人。彼女のお友達が家にやってきたときのこと。同じく6歳の男の子は私を見て、彼女にこう聞きました。「掃除の人?ドイツ語話せるの?」と。それは訝しげな顔で。彼女は淡々と「kikiだよ。一緒に住んでるし、ドイツ語を話すよ」

私はこの紹介がとても嬉しかった。6歳のマリーはお寿司が大好きで、ウィーンに遊びに来ると「お寿司食べたい〜」の自作の歌を歌うくらいです。でも彼女はいまだかつて「kikiはどこから来たの?」とも私のドイツ語がちょっとおかしいことも、髪が黒ことも何も聞きません。ただ後手にUNOを隠して、私に近づいてきて遊べるか様子を伺い、私の発音が悪いドイツ語もそのまま受け止めます。

 

マリーがそう私を紹介した後、この男の子も「そうなんだ」と言ったきり、何も聞きませんでした。ただ私に自分たちが出来ないことをせがんで、一緒に遊んだだけです。アルバイトに行く時間になり、靴を履いていたら、二人が手にお姉ちゃんのキラキラのマニュキアを持ってやってきて「これ僕たちに塗って!kikiは絵が上手だから塗れるでしょ!」と。キラキラしたピンクのマニュキアを小さな爪20本に塗って、私は危うくバイトに遅刻しかけました。でもそれも、今も記憶に残るくらい、いい思い出です。

 

マリーは何かを意識して、私にいつもフラットなのではなく、彼女はそもそもフラットなのです。私を大事にしてくれる、ここにいる友人たちはとてもフラットです。

 

私はそうあることも、一つのデモクラシーだと思います。今日のデモは、こういう問題に気がついていない人たちに届けるための大きな行動です。そしてこの長く苦しい、醜い差別問題を全員が当事者意識を持って関心を寄せ、乗り越えようと強く思うべき時だという警報でもあるでしょう。でもマリーの行動も同じだけのインパクトを当事者に与えます。私は、今日も明日も、ただ人として、人と接することで、隣人とデモクラシーを継続することが出来ると信じています。

 

そして、それはシャイな日本人にとても合った行動理念のような気もします。

デモに参加してプラカードを掲げなくても、出来ることです。今日知って、心に留めるだけでもいいのです。何が差別なのか、そのアンテナを持っていることがとても大切だと思います。