デジタルコミュニケーションの限界的ドラマを迎えたセメスター最終日。

みなさまお元気でしょうか。

私はここ2週間の睡眠不足に詫びるように、ぐっすり寝すぎて1時間も寝坊した水曜日。昨日、一旦20年夏セメスターが幕を閉じました。めでたし、めでたし、と言いたいところですが。最終日は非常にドラマチックでした。今期取り組んでいたドイツのソーシャルドラマよりドラマチックだったかもしれない。去年はベネツィアの墓地で大泣きし、一昨年はカールスルーエで落ち込んだわけですが。期末は一筋縄では終わってくれない、のですかね。

 

当初からの予定通り、月曜日、火曜日と最終プレゼンが行われました。

通常は一人持ち時間30分程度で作品について発表し批評がつく、試験でもあるのですが今期は主任教授がドイツにいることもあってスタジオとドイツにいる教授とをZOOMで繋いで行うこととなりました。この3ヶ月のZOOM授業の経験を元に、全員が画面の前で集中できる限界は3時間だろうということで、一人の持ち時間も10分へと短縮されました。もはや要約をしゃべるだけ、見せられるのはデジタルマテリアルのみ。制約が多すぎで、逆にプレッシャーも何もない感じで迎えたプレゼンでした。

 

デジタルで長い間コミュニケーションを試みてきた私たち。議論や講義をする上では、なんとか成立していたので、今回もなんとかなるだろうと思っていた。のですが、1日目を終えて、2日目の最初に教授から出た言葉は「昨日はひどかった。全然理解できなかったし、もはや辛かったとさえ言える」でした。

 

そうとうフラストレーションが溜まっている様子です。ですが、2日目も同じ人数プレゼンを待機しているし、正直デジタルの情報しかないのは教授だけなので私たちも、いまいちピンとこず。そのまま辛辣なコメントを右に流してスタートしたのです。

 

中盤、ある学生が作品について説明仕切ったところで「正直に言って、何を言えばいいかわからないし、あなたが何を思って作ったのかもわからない。何も感じない」と言いだしました。彼が再度、説明を試みるも「わからない」の一点張りから、最終的にはこの状況に対する怒りがこみ上げてきた教授。怒り始めてしまいました。気がつけば作品の批評ではなく、彼自身の学生としての態度のような話にも聞こえるコメントが出てくる。聞くに耐えかねた、スタジオにいるメンバーは「でもこういうことでしょ?」と何度も作品について話せるように軌道修正しましたが、結局成功しませんでした。

 

教授や先生という立場から、学生の取り組みが目につくのは十分理解できます。

ですが、アカデミックな場において、それを作品の話にかぶせてくるのはちょっと納得がいきません。一生懸命毎日8時間筆を握ったからいい作品か?ではないと誰もが理解しているのに、議論やセオリーの授業への参加状況を持ち出されても困惑しかありません。確かに彼はこのコロナ下に限らず、授業への参加率が非常に低く、プレゼンのドタキャンも多い。先生たちの立場からはそれ以外の要素は見えないようで、すでに彼には「不真面目な学生」と言うスタンプが押されてしまっているのは、本人も私たちも気がついています。

 

それと前後して、ある別の学生が視覚作品ではなく、隔離生活から得たイメージを元に、ある曲を流しました。それをプレゼン、としたことにも、画面の向こう側の教授はイライラしていました。まるでこういう場に反抗したように感じた様子でしたが、アトリエで一緒に聞いていた私たちは、結構面白かったし、意図を理解することができました。それは理論的な話ではなく、感覚的なことで、それをデジタルの向こう側と同じ温度で共有する言葉を見つけることはできず、向こう側のストレスを緩和できる材料がありませんでした。

 

私がいつも「日本人の学生」として扱われるように、この曲を流した学生は「演出アシスタントとして長い経験を持つ劇場を知っている玄人学生」と言うスタンプが押されています。ことあるごとに「あなたは経験が豊富だけど、それを忘れて舞台芸術家として考えなさい」とよくコメントされています。私がフラストレーションを感じるように、彼もまた、このポジションにフラストレーションを抱えていました。

 

おそらく画面の向こう側からのコミュニケーションでは、新しい情報を受け入れるのが難しいのかもしれない、なんだかそういう風に感じました。この3ヶ月、ZOOMで顔を見て、話をすることで、今のお互いの状況をアップデートできていたつもりでしたが、実際は本当にわずかなことしか共有できていなかった。教授が期待したものを、私たちが見せられなかったのではなく、教授の期待は今の状況下のものではなく、過去のコロナ以前の状況で期待できたことだったのだと思います。

 

この3ヶ月、ただ顔を画面を通して見て、声を聞いただけだったのに、状況を共有できていたと信じていた私たちは、最後に現実の世界で一緒に座っている私たちと、画面の向こうにいる人との圧倒的な情報量の違いに気づかされたのだと思います。

 

確かに教授は、私をいつも日本人扱いするように、それぞれの学生に対して一貫したイメージと多少の先入観があります。私は多くの場面でうんざりすることも多いのですが、かといって、嫌な人だとは全く思いません。というのも、少ない交流の中で、なんとか学生一人一人と個々にコミュニケーションを図るために、そういう方法を無意識にとっているのだと思うからです。関心があるからこそ、起きている現象だと思うので、優しさでもある。先入観なく、一度に多くの人と深く知り合うなど、正直誰もできないだろうと思います。

 

ただ、私はこの「日本人スタンプ」を気にするあまり、自分の表現における自分の文脈を意識的に捻じ曲げてしまうことがあります。意図していないのに、作品を西洋文化での理解に載せているのと同じ現象が起きていて、これはとんでもない問題だと、今は思っています。ブレヒトの主張に知らぬ間にのせられてしまった。

 

ただ、例えば、それを持ち込んでいる教授陣に「日本人以外の要素にもっと目を向けて、フラットな批評」を求めて説明したところで、なんだか仕方がないような気もします。逆をいえば、なんとかあの人に認められたい、違う批評が聞きたいと押し付けるのは、興味のないことを無理やり喋らせるようなもので聞く価値があるかと言われれば、そんなことしてもね…とも思います。そういう想いから、ここで長く学生をしているとこの沼に足を取られて抜け出せなくなるな。そう思って卒業を急いでいるという背景があります。

 

さて、話を戻して。

スタンプを貼られている彼は、プレゼン(もとい言い合い)が全て終わった後、抗議のメールを参加した全員に送信しました。それに対して、劇場、芸術とはいい合うものだ。いちいち正しく理解してくれとリアクションするのは反応しすぎだ、と優しく諭してきた先生もいましたが、私は彼が感じたストレスと誤解が「そういうことじゃない」と理解できました。問題は先入観から、作品や出来事を色眼鏡で眺めていて、理解できない原因を自分ではなく他人に返還していることです。理解に対する責任は常に自分にもあるはずなのに。これは私に置き換えれば「理解できないのは彼女が日本人」と最初からどこかで思っていて、果たしてそれ以外の方法で作品を自分が眺めているか、という責任を棚に上げているのと同じなのです。

 

私は自分の語学能力から、公式なメールを書いたりすることを意図して避けてきたところがあります。でも、今回は彼の話を無視してはいけないと思い、返信を全員あてに出しました。先に書いたように、私には教授陣に正しく理解してくれと要求するつもりはありませんが、彼の抗議については全員が耳を傾けて考えるべきだと思ったからです。

 

誰に評価されれば、人は安心できるのだろうか。

安心など気にならないくらい強い気持ちを誰もが持たなければならないのだろうか。

でも、誰の声も気にならなくなったら、なぜ発表するのかわからない。

 

ただ、一つ今回のこの状況下で学んだことは目に見える要素は想像以上に少ないということ。デジタルは目に見える、聞こえる要素だけで構成されていて「空気」は運んでくれない。でもこの「空気」に実は多くの大切なことが詰まっていたのだ。そう思わされたセメスター最終日でした。

 

ソーシャルディスタンスを守りつつ、空気を共有できる方法をこれから探していかなければならないような気がしています。 無理なのかもしれないけれど。