仮想空間を経由して一時帰国。

夏休みに入って10日あまり。今年は語学学校に行かないので、3年目にして本当に夏休み。コロナがなければ、バイトとインターンの合間を縫って近隣国の美術館や劇場巡りをしたり、一時帰国するつもりだった。もちろん、どれも今は難しい。

 

来年の夏の卒業制作に向けて、一時帰国で色々とリサーチがてら卒業後の進路を考えるつもりだった。久しく、3年弱日本に帰っていないので日本社会が遠のいていて、卒業後に完全帰国が想像しづらいのが一番の理由。でもやっぱり日本にいつかは、もしくは一定期間は、帰りたい、という気持ちは消えず。今自分がどの程度のギャップを抱えているのか、がシンプルな疑問である。

 

そんなわけで、このギャップを解消したいという気持ちを回収すべく。

6月からオンラインで日本からのレクチャーに参加したりしている。元々、良く読んでいた文献を随筆している研究者の先生が講師だったし、申し込んだ5月時点ではまだまだ家にこもっていたので軽い気持ちで参加し始めたのだけれど、色々と発見があって面白い。そして日本語の授業なんて20歳が最後。受講者が全員同じ母国語話者な状況が最初、不思議で仕方がなかった。何より、コンテクストの公共圏が同一前提で話をしているのが非常に興味深い。日常生活の儀礼行為に何が該当するかと言う話の例に、ナチュラルにお正月の初詣が出てきて、説明が要らない。すごく島国感を感じて目を見開いた。それと同時に、このまま直帰国はあかんのや、そんな気持ちにもなったりしている。

 

前半のレクチャーと後半のワークショップの二部構成で毎回行われているのだけれど、ワークショップ中に3人の人と話し合う時間があった。知らなかったのだけれどZOOMには参加者を小分けにする機能があるのだ。すごい。すごいしか言ってないけど。

 

私ともう一人の人がヨーロッパ在住者で、他の2人が日本在住者。コロナ渦によるアフェクト的日常パフォーマンス(ざっくりしている)について話していた。ロックダウン中に結構懐かしい日本在住の友人知人とおしゃべりしたが、そこでは見えなかった「パニック具合」がひしひしと伝わってきた。政府の発表の信ぴょう性に自信がないから、自ら最悪の事態を想定してネガティブな情報をツイッターなどで読み漁り、そこを起点に行動範囲を決めていたと言う話だ。リスクマネージメントとして。

 

我々ロックダウン下に置かれていた身としては、情報は常に数字で政府が発信していて、2週間後の予測を事前に耳にして、誰に会うこともないから噂話もそこそこで、そもそもツイッターが全くポピュラーではないコミュニティに属している、家で大人しくするしかなかった身としては「そうか選択肢がある自粛ってマジでパニックだよね」と痛感した。おかしな話だけれど、身近な両親や友人より、正直どこの誰だか良く存じ上げない(向こうもそうだ)方のリアル感たるや。

 

この講義を受けていて、素朴な疑問がある。

日本におけるツイッターの影響力エグくない?だ。

昨日日本にいる親友(勝手にそう思っている)に聞いてみた。だってツイッターって一企業の私的プラットフォームだよね?もちろん政治利用されているし、公共性が高いのは理解できるが、日本においての立ち位置(もしくは日米における)が不思議である。どこの誰が何をソースに140文字にしているかわからない、ある種のファンタジー的世界だと、私は認識していたから。もちろん災害時にとても役立つツールではあるので、私もアカウントは持っているし、もったいないので最近このブログと連動もしている。でも日常的に開いて眺める習慣はない。時々ファンタジー的に眺める程度だ。

 

彼女曰く、アート界隈の人はひときわツイッターと親和性があるようだと言っていた。アナーキズムとか、そんな人には特に相性の良いツールのようだ、と。その受講グループはその部類の人が多いのではないか、と。なるほど。

 

私も日本に今の状況下で生活していたら、ツイッターで情報漁るかもしれない。ただ、たまたま違う言語でニュースを読む習慣があるので、おそらく画一的な情報ではなく、それこそ「何が本当なの?」状態に陥っている気がする。私が友達に聞かれて、例えばオーストリアの今のwithコロナのルールや情報開示内容を話すと「そんなに細かく決まってるの?」と驚かれる。でもそんなに細かく決めないと、ロックダウンは解除できなかったし、第2波を早い段階でキャッチできない。あくまでも細かい数字の上で綱渡り状態で日常っぽいものを取り戻そうと模索しているに過ぎないのだから。

 

どっちがいいのか、と言う話ではないが、どちらが安全かと言われれば感染症の専門家の意見を煙に巻かずに公表し、誰もが議論できる国があるなら、そこが一番安全だとは思う。日本は特権階級がドロドロに凝固されてるのに、なぜか選択肢が国民に委ねられている超民主主義みたいなコペルニクス的皮肉がパニックを生み出しているように見える。でも、根拠や選択するための情報が正しく開示されずに「自己責任」を投げられても、えぇ〜無理だよ〜、だと思う。もし私が今、いわゆる「夜の街」で働いていたとして、そう嘆いていると思う。だって誰の話を信用して頼ったらいいのかわかんないじゃん、とはらわた煮えくりかえってると思う。

 

ちなみに、日本の夜の街ぐらい、ウィーンも夜の街は少々賑わっている。もちろん、コロナ以前に比べれば減ったし、アルバイトしているレストランを例にすれば、特に50代くらいからのお客さんの滞在時間は圧倒的に短くなった。パッと食べてパッと帰っていく。これに伴って私の帰宅時間は1時間早まっているくらいだ。23時をすぎると、ディスコが営業していないからか, 路上に若者グループが片手に瓶ビールを持ってたむろしているのと距離をとりながら道を歩く感じになる。ちなみにディスコ再開は8月から。あっディスコは日本でいうクラブです。つまりは、あんなに真面目にロックダウンに従った市民も、根拠があればこんな感じで気がぬけるし、電車でマスクしていなくて注意される人を見かけるくらい緩々である。誰も感染症対策最優先の日常は息がつまるし、根本は同じな気がする。当たり前だけれど。

だからこそ、なんていうか説得力のある情報を常に流し続けて、危なくなったらぎゅっと引き締めるしかないのだろう。それが人権や公衆衛生と絡まると頭は痛いが、この情報が常に毎日流れて更新されていると、あぁまだwithコロナなんだと実感させられる。私の場合は。未だに怖くてカフェ屋内でコーヒーを飲もうとはならない。テラスがあるなら短時間パッと外食する、手にはいつもdisInfection。インターンで70歳と仕事をするのだし、大学の先生たちはリスクゾーンバリバリである。私はコロナを運ぶわけにはいかない。でも目に見えないし、バイトしているし、バイトしないと家賃払えないし、結局、統制がそこそこ取れている場所で生活していようと、コロナは怖い。

 

なんだか話はとっ散らかったが。日本と繋がってみようと軽い気持ちで、かつオンラインだからそれについては全然期待はしていなかったのだけれど、鮮度抜群のリアルを垣間見た。

 

そんなわけで、引き続き8月も日本からの別のオンラインレクチャーを受けることにして申し込んでみた。今度は日中6時間、つまりウィーンは早朝4時からのレクチャーで一瞬ひるんだが、これこそ夏休みのなせる技だと思い直してちょっと高いけど参加を決意。まだちょっと心配ではあるけれど、何かしら収穫を得られるよう向き合いたい。

 

今年はオンラインで一時帰国で我慢します。