言葉にするとなくなってしまう。

今年は悲しいことばかり。これが最後だ、そう思いたいと毎回思うし、これが最後だと今も強く言い聞かせようと思う。そう思って祈ることと、現実から目を背けることが同意にならないか、それだけをいつも自問自答している。

 

自分の暮らす国で発言を制限されるということはどういうことだろうか。

ましてや、それが、どこに住んでいても、亡霊のように後をついてきて、ボーダーラインを超えた瞬間に突然肉体を呼び寄せて行使されるとは、どれだけの恐怖か。

 

昨年の夏、私たちのスタジオにはゲストが来ていた。我々の主任教授であるアーティストの彼女のドキュメンタリーを撮るために、カメラを回し続けていた若者たち。みな香港からはるばるやって来た。私たちの授業風景を収め、生徒たちのインタビューも撮りたがり、ニコニコとした笑顔を浮かべて話しかけられた。「アジア人は珍しいよね」と、私と差のない不慣れな英語で、そう近づいてきた。

 

ロックダウンに入った3月、香港から一本のドキュメンタリー映画が届いた。厳重にセキュリティを掛けられたそれは、私たちが個人的に自宅で密かに視聴するために届いた。香港民主化デモのプロテスタントとその激動の最中を記録したものだった。それを視聴しながら、自分がひどく無菌状態に逃げ込んでいるような気さえした。見るだけで体力を奪われる作品だった。それが安全かもわからない、でも私たちは昨年の夏から、教授が繋いだ細い糸を頼りに、その時はひどくのんびりと共同プロジェクトを企てていた。だから、ロックダウンが明けた頃、私たちは一本のビデオレターを彼らへ送った。

 

スイス人作家のMax Frischの幾つかの質問に、私たち一人一人が、一問一答形式で答えたものをつなぎ合わせた至極シンプルなものだ。何が安全なのか、その上で作品の形態を考えなければならなくなってしまった。でも何かお互いコミュニケーションの取れるものにしたかった。

 

ずいぶん日を跨いで、香港から返事が届いた。とても短いメッセージに、胸が張り裂けそうだ。

 

”I can't help but cry to see your young faces and the simple reflection of human condition, the true nature of university studies that my students here might not be able to enjoy anymore under the current situation.”

 

1年前、アトリエで、彼らとアジアの演劇について雑談した。とても軽い口調で、彼は私に「香港で劇場芸術を学べる場所はとても限られている上に、言ってしまえば保守的でもある。アートもそうかもしれないが」と話してくれた。それは、そこまで深刻そうでもなければ、むしろ私がなんでまたこんなところで、こんな勉強をしているのか聞き出すためのイントロダクションとも取れる様子だった。たった一年ですっかり変わってしまったのかもしれない。

 

私たちが香港とのプロジェクトをひっそりと、誰に知られることもないように、進めていることを知った母から長文のメールが届いた。香港国家安全維持法の国外での適用についての主な項目を抜粋したものだった。私がアクティビストではないことを知りながらも、アートの紙一重さに不安がよぎったのだと思う。

 

ことを進める前に、私たちは今、彼らの自由が人質になっている危うい綱渡りの端と端に立っていることをもう一度認識しなければならない。彼らをウィーンへ招待するつもりで始めたプロジェクトだが、何が最優先事項なのかがここまで複雑化するなど夢にも思わなかった。

 

私の叔父に香港人がいる。

幼い頃、丸顔、一重でガリガリのみすぼらしい私に、おじさんだけが「kikiちゃんは綺麗だね」といつも言ってくれた。誰かから綺麗だなんて言われたことなどない私は、いつもきょとんとした顔でそれを聞いていたけれど、話せる片言の日本語で、引っ込み思案だった私の背中を押そうとしてくれたのかもしれない。まだ返還前の香港の雑踏を手を引かれて歩き、ちょっと見た目の怖い金髪で青い目のお人形をプレゼントされ、初めて嗅いだその人工臭にひどく目が眩んだことを覚えている。活気のある、不思議な匂いのする街だった。

 

どうにかならないのだろうか。

どうして人が人を監視しなければならないのだろうか。フーコーの本を広げたって、私の欲しい答えはなかなか見つからないし、でもあのメッセージの先に、彼らがいるのであれば、ただ何かナイミツに、声を流せる水路を作れないものだろうか。

ここに書いてはいけないだろうか。でも黙殺するのが一番怖い。