おじさんと下ネタは許せない。勇気を振り絞るために、海外かぶれを武器にする。

色々とありまして、朝からワインゲシュプリッツゥアーを飲んで、頭痛をコーヒーで撃退しようとしている夜のウィーンからこんばんは、kikiです。

 

色々テレコです。明後日にはワクチン2回目でちょっと緊張気味です。

薬局でワクチン副反応に効くという薬を横目に、とりあえず手持ちのパブロンで太刀打ちできるかしら…と遠い目です。

 

さて、卒業してから定住先を決めようという不確定未来を受け入れてはいるものの、

それについて考えたときに一つ、いや二つ。私の前に立ちはだかる大きな壁があります。正確には、日本へ帰国の壁です。これはもう歴史的な壁でして、ベルリンの壁かの如く私の世界を分断しています。

 

えぇ、タイトルを「おじさんの下ネタ」と最初命名したものの、「おじさんも」、「下ネタも」許せないと思い直し、書き直しました。耳が痛い方の耳に突き刺され!

 

海外生活で一番のストレスフリーと言っても過言ではないこと。

職場や公共圏において、そうそう出会わないもの、そう、おじさんと下ネタ。

私はこの二つが昔から、ぜんっぜん好きじゃないです。社会人になった時の一番の疑問が、職場や仕事関係の飲み会に半強制的に参加させられては、強制的にこのくだらない話題で時間をつぶす習慣。

 

おい、おっさんよ。おじさんは正義じゃないし、下ネタはセクハラだし、下品でしかないぞ。お前は松本人志じゃないし、松本人志だとしたところで、だぞ。

 

*ちなみに今更だが「おじさん」という名詞には全ジェンダーを含んでいる。女性の振りをした、もしくは性別を限定せずこういう行為をする人を私はおじさん族と認識している。実は昨日もウィーンでビックリするような下ネタを浴びせてくる日本人女性に出会って腰を抜かしそうになった。やべぇおっさんだった。タイムリーなのでここに記している。

 

 

でも、日本社会しか知らなかった当時は、世界の誰もがこのくだらない時間をなんとかやり過ごして生きてきたのだと信じて疑いませんでした。

 

いやいや、その世界、おかしいで!

 

久しぶりに太文字になっちゃった。

デンマークの学生生活においても、カナダの職場においても、そんな摩訶不思議な下ネタタイムは存在しません。ドイツもウィーンも言わずもがなです。どこの誰がそんなくだらないことに時間を費やすのか。最初は私の海外経験がラッキーなだけかなと思っていたのですが、えぇ、普通、存在しないんです。だから我慢しなくていいのです。

 

普通と枕詞を挟んだのは、もちろん、世界中、頭のイタイ人というのは存在します。最近だとベルリンのフォルクスビューネのスキャンダル。セクシャルハラスメントでキックアウトされています。

 

taz.de

どんどん追い出してほしい。

 

友達と最近話題になったのがイギリスの若い作家。現在ノリにのっているこの作家、作品が素晴らしいのでベルリンや有名な劇場において舞台作品化しようというプロジェクトが持ち上がっては中止になっているのですが、理由がある。どうも右翼的な思想の持ち主で過去にそのような発言をしているという疑惑が立ち込めているのです。

 

素晴らしい作品とその作家の人間性はどこまで同一として扱われるべきかという話で、友達と一晩語り明かした。これはとても難しい問題である。

 

極端なことを言えば、作品を通じて富と名声を手に入れて、今の時代ではそこに影響力が付いてきてしまう。まだ未熟な10代の若者にSNSを介して簡単に情報を発信し取り込むことができてしまう時代。ヒトラー的思想の誰かが、当初は無関係に見える何か魅力的なコンテンツなり芸術を生み出していたとして、そこに乗っかることで第二の怪物を知らず知らずに育ててしまう怖さ。そういう意味で、作家のバックグラウンド、時には政治的思考や思想の極端な偏りに気を付けなければならないというのは、理屈として十分理解できる。前述した作家の話はドイツにおいて、そういうチェック体制が劇場ごとにある程度機能しているという例でもある。でも現場の話を聞く限り、古いマッチョ体質の有名な演出家はまだ五万といる。私世代の今はまだアシスタントの子たちが口をそろえて言う「若い演出家と仕事がしたい。マッチョはこりごり」。

 

政治的思考とおじさんと一見関係なさそうだが、私見では日本の居酒屋みたいなパラレルワールドはその中でも非常にやべぇ場所である。おじさんの下ネタは公式に公的に追及される問題であるので、上記の作家の政治思考と並列して述べたいわけで。もし、居酒屋にこの劇場様式を持ち込んでみたら、同じく一発退場続出であろう。

 

実は昨今の政治家の失言のつるし上げで、世間のおじさんがビビっていることを期待している。願わくば、義務教育でジェンダースタディを取り入れて欲しいし、若い彼らの肌感をちゃんとおじさんたちは受け入れてほしい。付き合いが悪いのではない、その会が気持ち悪いんだということに気がついてほしい。

 

私はおそらくこの狭間の世代で、このおっさんたちの話を否定も肯定もせず適当に聞き流してきたのだと思う。そしてこの温床が育つのを横目で眺めてきた。反省している。が、いまだにたまーーーーにウィーンでもこのおじさんという種族に遭遇した時につい、適当に流そうとしてしまう。ウィーンにおいて、このおっさんの発言がドイツ語だったなら、もはや隣の席のネイティブが助けてくれるかもと思われるような内容でも、そこに真っ向から切り込む勇気が未だにない。つい、「用事があるので帰りますカード」を切ってその場から姿を消すことを選んでしまう。

 

そして理不尽なことに、この発言がドイツ語や英語だったら、私も言い返せる気がするのだ。おそらくは理論的に指摘ぐらいはできる。でも日本語で相手がおじさんというだけで、逃げるを選択してしまう。なんでか。

このおじさんにはその理論が通じないことを肌で知っているからですね。この人はおそらくLGBTQIA+についてよく知らない世界戦に生きていて、知らないことが恥ずかしいのだということすら実感もないだろうと思われ、私がここで指摘することで何かがひっくり返るかもしれないが、暖簾に腕押しの可能性が否めないのである。戦ができない可能性があるというのは厄介な話である。

 

が、しかし、だらだらと書いているが

 

おじさんも

下ネタも

今後一切

受け入れないぞ

*kiki 心の短歌

 

 

なので、私は最近新たな武器を手に入れたいと思っている。その名も「海外かぶれ」である。もう戦いができない世界戦に相手がいるなら、私も違う世界戦で生きていることをぐいぐい押し付けてやろうじゃないか。下ネタを言われたら真顔で「えっ?」て返答。なんなら意味わかんないし、やめたほうがいいですよと一矢吹くぐらいしたい。

 

勇気が希望に変わってきたら正々堂々と物申せる人に成長したい。自分の小心者感に絶望感しかないこのテーマの正しい扱い方がアップデートされたらまただらだらと書き残したいと思う、自分のために。