世界地図。

3月も色々なことがありました。とりあえず、まだウィーンに居て、諸事情もろもろにより、なんでかPhDをスタートしました。このまま続けるかはまだ分かりません。モラトリアム。

 

この1か月、何をしていてもロシアのウクライナ侵攻のニュースが頭を離れません。SNSを開けば、そこにルーツのある友人知人が人道支援で右往左往する様子が流れてきて、何もできない(何もしていない)傍観者である自分が押しつぶされる気持ちです。タリバン政権の時も同じ気持ちでSNSをただ眺めていました。もはや極悪非道なニュース欄に、目を背けたい気持ちでいっぱいです。同じ人間のすることかな。辛くて悲しい。シンプルにその気持ちが渦巻きます。

 

ニュースを読むたびに、デンマークに居た頃を思い出します。

私には2011年当時お付き合いしていた人が居ました。彼はクルド人でシリアの出身ですが、当時デンマークで私と暮らしていました。内戦の前にクルド人迫害により亡命していたからです。

 

彼と付き合い始めて少し経った頃、突然アラブの春が吹き荒れました。

家族との電話が思うようにつながらなくなり、数か月たてば彼の周囲の人が亡くなったという知らせを受け取る日常に様変わりしました。それまでは、時々贅沢に国際電話でシリアとつながるのがあんなに幸せだったのに。もともとシリアでの迫害によるPTSDで不眠症気味だった生活に逃げ場がなくなった彼の横で、その時もただ傍観するだけでした。朝起きて、彼が夜中に食べたピーナッツの殻の山を片づけるのが日課でした。何時間、ここに座って夜中の景色を眺めていたのだろうと思うと苦しかった。

 

難民として母国を出た人の生活の内側は針の筵です。彼はデンマークにたどり着くまでに沢山の国をたらい回しにされ、デンマークでも難民支援センターのような場所でバックグラウンドチェックと身体チェックを受け続けモルモットのような時間を過ごしたのちに、同化プロジェクトのような契約書にサインをして施設外で生活が始まりました。

 

彼に想いを告げられたとき、とても印象に残っていることがあります。「僕はとても健康だよ。HIVでもないし、よく働けるよ」と、施設で受けて発行された健康診断結果を見せられました。彼は健康であることが彼の自由を保障するという支援センターの意向が欧米や先進国の価値観だと思っていたようでした。まるで兵士です。驚いたとともに、涙が出てきて「あなたが病気をしても、HIVでも大丈夫なんだよ。HIVの迫害は歴史の汚点で、今はもう無いと私は信じているし、少なくとも私にはそういう感覚はない。あなたがこうなったのは、あなたの責任ではない」と私が一生懸命伝えるものだから、告白のロマンチックさを吹き飛ばすその姿に、彼が驚いていました。

 

中東からの移民の人々に向けられる視線は今もなお、どこでもとても冷たい。彼らが好き好んで国を離れ、自分たちの税金を食いつぶしていると思っている人々がいるし、なにより有色人種に対する無意識の境界線の根はとんでもなく深い。それは今まで生活してきたどの欧米圏でも変わらない。もちろん結果として彼らの収めた税金に助けられて生活しているし、街に馴染みのない言葉が溢れることが怖いのも分からなくはありません。ただどれだけ選択のない生活をしているのかということについて、理解しあえる機会が内側と外側どちらにも無い。誤解は誤解のまま分断を生むだけです。

 

 

当時、彼はまだ20代で若かったので、デンマーク語を習得して仕事をして生活していました。その体力がありました。毎朝仕事前に、同じ街に暮らす同じようなバックグラウンドを持つ年配の人々からのSOSで目を覚まして出勤前に「今日は郵便局に一緒に行ってから仕事に行くよ」というような話をいつもしていました。年配で家族ごと移民としてデンマークに逃れてきても、そこから外国語を習得して生活するまでには時間がかかりますし、そもそも母国でもそういった教育システムを通らなかった人が外国語を習得するのは並大抵ではありません。彼が郵便局に行ったのは、デンマーク語が分からない年配の人に頼まれたから。仕事の後には、別の友人が訪ねてきて、家族にテキストを送りたいと言われては彼が文字を打ち込んでいました。同じ年の母国語でも読み書きができない友人が居て、彼がいつも代筆していました。あれから10年たちますが、その友人はたまに私にデンマーク語でSNSのメッセージを送ってくるようになりました。今はデンマークで美容師として働いているようです。この10年で、母国に残した家族と親戚が沢山なくったと別の友人から聞いていましたが、それでも彼は明るい言葉を私に送ってくれます。

 

内戦状況が悪くなってきた頃、同じ境遇の友人たちが彼の家に集まって話し合いをしていたのを一度だけ見たことがありました。彼らは普段集まっても冗談を言い合うだけで、全くシリアの話をしなかったので、特別その日のことを覚えています。友人たちが帰った後、彼に「そんなにひどいのか」と聞いたら「君は知らなくていいんだ。戦争はどうにもならない。誰も助けてくれない。君まで苦しまないで」と言われました。

 

時間をかけながらそうやって、生きていました。

 

戦争で戦場に閉じ込められた家族がトマトが一個1000円になって困っているという話を聞いても、移民の彼は母国に行くこともお金を送ることも禁止されていました。私の日本の口座もシリアへの送金は出来ませんでした。内戦が始まって1年、彼は友人知人のつてを辿って陸路でシリアへお金を届けに行きました。デンマークで見つかれば強制送還されるし、シリアで亡命者とバレれば殺されます。私は彼とそのことについて喧嘩をし「でもじゃあ見棄てるのか、世界中の人々はただ眺めているだけで助けてくれない、僕は家族を助けたい」という言葉に返す言葉がなくなり、彼がシリアへ行き返ってくるまでの間生きた心地がしませんでした。当時は安易に「なぜあなたの家族はいまもシリアで生活しているのか」と彼にぶつけてしまったこともありました。そのたびに「君は母国にいつでも帰れるから、きっとわからない。国を捨てるのは簡単じゃない」と言われました。

 

 

もう別れた今でも、あの時他に方法があったのかと考えることがあります。でも当時私も20代で、結局たぶん、何一つ、彼の本当の気持ちすら理解できていなかったと思い至る、その繰り返しです。彼がどれだけの孤独や差別の中で生きていたのか、私の理解はただの想像でしないのかもしれません。

 

母国を追われるというのは、そういうことです。たとえ生き延びて、他の国で新しい生活をスタートしたとしても、拷問された記憶は消えないし、夜中にぱっと何か光ればもう眠れなくなる。唯一手にしていたホームビデオを何度も何度も一緒に眺めた夜を、ただ思い出します。ダマスカスの街はとても平和そうで、日の沈んだ夜に、家族でアイスクリームを買いに行くだけのホームビデオが、彼が夢見た永遠だったのだと思います。

 

戦争のニュースを見るたびに、色々な気持ちが渦巻いて、どうしようもありません。

 

 

言葉にしたところで、私もまだ目を閉じて、わたしの日常をやり過ごしています。

仕事を探すか、論文を書くのか、何か先のことを決めなければならないのに、ぼんやりとしていた3月だった気がします。

俯瞰で世界を眺めるのは、とても苦しいですね。