8ヶ月目の考察。文化の違い。

8ヶ月経ち、ドイツ語の聞き取りがマシになったところで色々と「文化の違い」を興味深く感じるこの頃。なんとなく、芸大でかなり特定された分野を専攻している私の環境は特殊であることも理解してきました。もしかしたら1年後にはこの感受性は鈍くなるかもしれません。今日自然とドイツ語のFワードが口をついて出た自分が信用ならない。友人がそれを聞き「KikiがFワード言った〜!」とスタジオが盛り上がる。慣れって怖い。というわけでブログに書いてみることにしました。

 

その1 どっちでもいいよと言うと嫌な顔をされる

元来、制作に関連しないことは大概どっちでもいい私。プライベートで「こうじゃなきゃ!」みたいなのが極端に薄くなります。例えば「何が食べたい」とか「何時に待ち合わせたい」とか「どこに行きたい」とか。拘りがあるときは一人で消化しちゃう癖があるので、「これが食べたい」とか「行きたいところがある」ときは一人でさっさかやってしまいます。多分、それも相まって誰かと行動を共にするときはまぁどっちでもってなります。日本の友達にも「優柔不断だなぁ〜」と言われることはありますが、こちらではそんな顔しなくても!ってくらい嫌な顔されます。「私の質問に答えてないじゃん!」みたいなね。「どっちでもいい」は質問の回答として中々認めてもらえません。笑

今日も授業の開始時間を9時半にするか10時にするか希望を聞かれて、本当にどっちでも良かったのでそう答えたら先生がすこぶる嫌な顔してました。そのどっちでもいいには若干ドウデモイイが混じってるので、そこを見透かされた感じです。ごめんね、先生。

 

その2 相談すなわち解決。愚痴なんて聞いてらんない

これは個人的にはフィットしていて、楽だな〜と思うのですが文化の違いだなと感じます。もしかしたら私の周りだけかもしれませんが…。優しさと共感はイコールにはないということでしょうか。

あるアジア人のクラスメイトが色々と大学生活の愚痴を授業後に言い始めました。私以外はヨーロピアンの数人でその話を聞いていました。私はなんとなく「これは愚痴だな。疲れてるんだな。聞いて欲しいんだな。なんなら共感して欲しいのかも?」くらいに聞いていました。現に一対一で聞いていた時は「アドバイスが欲しいんじゃない、何か辛いんだ」と思って、私はただ話を聞いていました。ですが、それはここではちょっと違うようです。他のヨーロピアンたち(変な呼び方ですみません)がイライラし始めました。そして彼らは全員一致でこう言いました。「そんなに嫌なら自分で口に出して伝えるべきだよ!伝えないことは一生変わらないんだからさ。相手だって聞くと思うけど、なんで言わないの」

なるほど…。確かに建設的です。でもこの一件以来アジア人の子は顔を見せていません。これが原因の一番ではないでしょうが、彼女のお国柄を想像するにもしかしたら、誰も寄り添ってくれなくて傷ついてしまったのかもしれません。

誤解なく補足します。彼らはいつもとても優しいです。困っていたら助けてくれるし、辛い時は寄り添ってくれます。ただネガティブな「ただ言いたいだけ」みたいな話には耳を傾ける気がないようです。さっぱりしてるんだな…。

 

その3 思考のベースはキリスト教でドイツ語文化

これに関しては、ここで勉強している以上そうだよなぁ〜とは思いつつ、でも芸大としては珍しい環境な気がします。他のスタジオは公用語が大抵英語ですし、もっとインターナショナルです。でも私のスタジオは専攻の中核に「テキスト」、つまるところ「言葉」が鎮座しています。「社会ーランゲージー身体ー視覚ー空間ー聴覚ー感触」そういう芸術分野でかつ大半の先生の母国語がドイツ語なので致し方なし。哲学や批評文の参考文献が多いので、ハイレベルな語学力が必要=先生の母国語=ドイツ語と云う図式です。ただ話を聞いていると、ドイツ語文化とキリスト教文化が当たり前にベースとなっていることに狭さや疑問を感じることがあります。とはいえ、今のところは私がどういう広さを求めるかをキープすること。それをドイツ語文化に合わせて制限する必要は無いと結論づけているので悩んだりということもありません。教授に関しても、私が持ってくるトピックが面白いようなので気兼ねなしです。中東の友人達がいること、カナダで暮らしたことがここにきて自分の財産になりつつあります。

 

もしかしたら芸術分野以外で、この大前提を常に守らねばならないサブジェクトもあるんでしょうか?日本はやっぱり神道や仏教的な視点で全てが語られているんでしょうか?死生観までいくと、そういうところがあるのかもしれません。日本で置き換えると「普通は」教でしょうか?違うか…。面白い違いだなと思います。宗教を持ち、生活に根付いているって影響力半端じゃありません。

 

受け手に視点を合わせる、というのは圧倒的な日本文化なのかもしれません。それがエンタメ大国を生んでいるのかもしれませんし、それは資本主義と対峙するものなのかもしれません。お金を作るってどういうことなのか、それが社会を飲み込むのは簡単だなぁと考えてしまします。

 

「相手に伝わり、理解されることが正解」

 

それは私の今の環境と芸術分野では、不正解です。全てがわかったと思い込むことは、おごりであり、そして分からないことだからこそ参加する意義がある。分からないものは間違いだと判断しない、社会でも大切なことだと思います。そういうものが芸術で提供されるものなのでは無いか、そういうことだと思っています。

 

だからこそ、「違いを前向きに感じる感受性」は大事にしていたいと思います。