ブログのこと。芸術のこと。

今日は日本人の友人のお家で夕食をご馳走になってきました。久しぶりの日本食と会いたかった人に会えて、幸せな夜でした。

 

夏休みに入って、余裕が出てきました。もちろん勉強には追われていますが、セメスター中のあの寝る暇もない、冷凍庫があることにも気がつかない感じより断然余裕があります。相当ギリギリの状態で日々格闘していたようです。笑

 

だから、なのか。ブログのネタを探している自分に少し驚きました。私は誰かに共感してもらえそうなことを書きたいと無意識に思っていたようです。そのことに気がついてから数日、そもそもブログを書いてる理由について考えていました。初めてブログを書いた日から、私にとってブログを書く行為の持つ意味が変わってきたようです。

 

記録に残したいのならば、日記を書けばいい。

誰かの役に立ちたいなら、もっと客観的な情報を中心にすればいい。

どうして私は、私の考えを、こんな公共の場に晒しているんだろう。不特定多数の、知らない人を前にリスクを犯してこんな行為を続けているのだろう、と。

 

多分、バランスをとっているんです。自分を確かめている。自分が普通を見失っていないかどうか。誰かに公表することを前提に物事を整理し、文章にすることで、今の自分が社会との接点を失っていないかを確認しています。だからなんの実もない文章をだらだらと書き、人の目に晒しているのです。

 

私は私の人生でよくかけられる言葉があります。

「好きなことを見つけて、好きなことをしていていいよね」

 

今まで、そう言ってくれる人には「そうかなぁ」なんて曖昧な返事をしてきました。でも本当は「こういう風にしか生きられないんだよ。そうなりたかったわけじゃない。きっと」と心の中で答えてきました。

 

私は子供の頃から、周りが自然と受け止め、受け入れらることが、そうできない。

「普通はそうなんだよ」と言われても、その普通はどうして普通なのかについて考えてしまう子供でした。さらにとても内気でそれを口にできるようになったのは18歳を超えてからでした。高校生まで、ただ周りに合わせてニコニコと笑っている子でした。人と違うと気づかれたくなかった。

20代、自分を解放した結果はひどいものでした。自分が考えていることをそのまま口に出すと人を傷つけてしまう。本音を話すと周りを混乱させてしまう。人は普通を疑われると怖いものです。私は人を無差別に傷つけてきました。ある日そのことにとても疲れて、日本の普通を吸収してみることにしました。私は普通に育ったはずだ。だからきっと私もそういう日常に溶けこめると思い込んで。でも結局、本音を上手に隠せるようになっただけでした。

 

芸術の世界に入ったのは、作品を通してなら自分の本音を話せるとわかったからです。

このブログを読んでいる方は、私が今、ウィーンで学ぶ教授に並々ならぬ信頼を預けている。盲目的に。と感じているかもしれません。それは間違っていないでしょう。

人生で初めて、本当のことを話してもいい人に出会いました。私がどれだけ突拍子もない、彼女が思いもしない角度から物事を解釈し表現しても、彼女はじっと私の目を見て話を聞き、最後には「あなたには影響されるわ」そう言って受け止めてくれます。彼女は私の不安や葛藤を押し開こうと、そっと背中を押してくれる。本当はそれにどっぷりとつかり、扉を開くべきなのでしょう。芸術家として生きていくのならば。

 

でも、まだ怖くて私はこのブログに文章を落とします。

自分の価値観だけで生きていないか、私は社会の中の一人でいられているのか。

また自分の本音だけで誰かを傷つけていないだろうか。

 

以前読んだあるアーティストカップルのある一節。

「僕らの作品は、目に見えるかたちで役立つものではありません。それでも発表する理由の一つは、役に立たないものが世の中からなくなるのが怖いから」

日経回廊 パートナー考ー青木存・青木陵子 インタビュー記事より

心から、私も共感します。お金になるもの、発展するもの、喜ばれるもの、必要とされるもの。それ以外は役立たずだと切り捨てる世の中にはなってほしくない。私は誰かのそういうものを切り捨てたくない。私自身のそういうものも切り捨てたくない。私が巡らせる思考は、作品はただの無駄なものかもしれない。このブログだって、誰かの役に立っているなんて思えない。ただ、そういうものを持っていたいだけかもしれません。

 

本当のことはいつまでたっても話せません。いつだって独り言。

だけど、だから私は役に立たないことを毎日一生懸命やっているのだと思います。