Jane Doe.

ウィーン時代の友人から、ある日お願いがあるんだけど‥とメッセージが届いた。

簡潔に言えば、彼女が経験したある機関の闇について、ペンネームか本名どちらで出版するか悩んでいるから、テキストを読んでほしいという内容だった。

 

私とは全く違う畑の人なので、自分がどう役に立つか。そんな疑問はとりあえず横にして、二つ返事で、うん、送って!とテキストを受け取った。私以外には母親にしか見せていないが、もう出版されることは決まっていて、出版社に名前を公表するか2週間以内に返事をしなければいけないとのこと。

 

読み始めて、とても内容が苦しくて、一度途中で休憩が必要だった。彼女から当時、逐一その話を聞いていたので、新しい内容ではないにしろ、どれだけ深く彼女に傷を残したのかを文章で読むと、私は当時もっと出来たことがあったのではないかと自分の後悔に置き換わってしまった。私はこの文章を読み切るのに一息つけるが、彼女にはその休息はなかった。絶え間ない苦しい時間だったはずだ。

 

彼女が私に文章を託したのは、これを実名で出版した時のキャリアへの影響を危惧していて、それについて相談したいということだった。一晩明けてもう一度一から読み直して、さらに一晩置いて、今日まずはメールで率直な私の意見を書いて、電話で話したいということを伝えた。

 

実名で公表する価値のある、社会的に意味のある内容だった。何か批判が湧こうとも、彼女を支持してサポートしてくれる声の方が多いだろうとも思えた。

 

でも、私は彼女の近しい友人で、彼女が社会的な責任感やキャリアのために二次被害に合う可能性が一ミリでもあり得ることを後押しできないと一番に思った。彼女がどれだけ繊細な人か知っている身として、千件の賛同にたった一つでも意味のない理不尽で心無い反応が加われば、彼女はそれに打ちのめされる可能性があると思ったから。何より、彼女も具体的な実名や特定できるような描写を避けている。言い換えれば、当事者以外は、誰についての、どこの話かは推測すらできないように書かれていた。そういう意味で、公共性の高い文章でもあった。偽名、もしくは、名前を公表しなくても、双方にフェアだと思う。

 

ニュースに触れるたびに、私の中で

人生を左右する勇気ある告発をとんでもない理論と方法で踏み躙る人々がいる世界だという認識が根付いてしまっている。自分では計り知れない、思いもつかない角度から、傷つけようと試みる人はいる。モンスターだ。

 

もちろん、彼女の文章に勇気をもらって、彼女が同じ心根を持つ素晴らしい未来の同僚に出会える可能性があると思う。でも、フィルターが必要なんじゃないかと思った。

 

何よりも、幸せであってほしい。

もう必要のないほどに傷ついたことを、何度も違う形で説明し続ける可能性を孕んでいる。文章が評価されれば、されるほど、それは終わらない。本人に迷いがなければ、モンスターに何を言われようと、そのことに向き合えると思う。でも私に相談してくるくらい、彼女は悩んでいる。何かを恐れているのであれば、無理することなんてない。

 

ペンネームからあなたに辿り着ける何か代替えの連絡フォーマットや出版社に問い合わせ窓口を置いてもらって、誰かがモンスターフィルターになれないものか?というのが私が彼女に言える妥協案だった。さらには誰か一人でも、同じ業界で信頼できる人に意見を求められないか?とも。私では役不足であることははっきりしている。私は彼女が傷つく可能性を排除したいという気持ちが一番強く、客観的な判断が下せない。さらに西洋社会についてはどうしても断片的にしか知り得ない。

 

もう一つは、告発的な文章で評価されると、本来の主軸がブレる可能性がある。

それを望んでいるか、もしくはしばらく受け入れる用意があるか?

 

例えば、ある女性がセクハラ的な被害や問題に切り込んで(彼女の主題は違うものです)多くの人から賛同を得られたとして、本来その人が例えば優秀な専門職に従事する人であっても、フェミニズムの代表的に祭り上げられる可能性がある。本人にその用意があって、どちらも担えるのであれば、それを引き受けて活動することには素晴らしい意味があるけれど、もしそうでなかったら、社会的な責任を意図せず背負うことになる。

 

かなりタフな時間になると思う。

 

人には人の数だけの正義がある。

そこに白黒つけることは出来ない。そのことを知って生きていくしかないと私は思う。

 

別のウィーン時代の友人と、共有の友達の私生活の大変さを危惧した話をしたことがある。

本人にも責任のありそうなことだな、なんて偉そうに当時の私は頭の片隅で思ってしまった。でも友人が「本人に落ち度や責任があろうとも、悲しいものは悲しいんだよ。それはどうしようもないし、それがその人の現実なんだよな」と言っていて、私の中の世界がガラッと変わった。その通りだと思ったから。

 

どれだけ、どんな理由であれ、悲しいという感情は別の何かでは説明できないのだ、本人は。

それが良いところをたくさん知る、大事な人なのであれば、悲しいときが過ぎるまでは、何か他のことを指摘するのではなく、悲しいことを認めて寄り添ってあげたいと思うようになった。

 

私もたくさんの間違いを犯すし、自分に都合の良い正義の中で生きていると思う。

つまりは、反省すべきことがたくさんある、でも悲しいことは、まずは悲しいし、

苦しいことが過ぎ去るまで、反省してそれと向き合えない。でもちゃんと悲しんで苦しいのを認めて、運よくそこを通り過ぎれたら、そのことと向き合い反省したり改善するように心がけている。自分だけは自分を否定しないことは、とても大切だと、ずいぶん大人になってから学んだものだ。

 

24時間、1秒毎に洪水のように、際限なく言葉にさらされる世界に私たちは生きている。

とんでもなく、残酷な世界だと思う。

その世界に対応する強さや技術など、本来は必要ないと思う。

傷ついたり、苦しくなる自分を責める必要などないし、世界中の数えきれない違った種類の正義にレスポンする責任など負わなくていい。

 

みんな幸せに生きてほしい。

 

*タイトルのJane Doeは身元不明や、身元を隠す必要がある女性や子供の本名の代わりに用いられる名前です。