ただひたすらカードを切っていく毎日。

ただひたすらカードを切っていく毎日のはずでした。

 

私生活においては、そうするしかない、という感じで多少納得がいかないことも、手持ちのカードから選ぶという方法を自立してから覚えました。

 

例えば、合わない元ルームメイトのわがままで、今いるサブレットでとても気の合うルームメイトが出ていかなければならないとなっても。気に食わないが、相手の権利を侵害するというカードを私も、他のルームメイトも持ち合わせていないので、受け入れる。

 

バイト先で、このひと仕事覚える気ないだろうなと思う人と働くことがあろうが、自分には人事をごちゃごちゃ言う責任も、また人の勤務態度にとやかく口を出す理由もさしてないので、ほっておいて自分の責任だけ果たすというカードを切る。

 

でも、どちらのカードも半々だと、どう使うのかわからない。

私は自分の作品を進めていくうえで、自分の当事者性や自己批判をどこまでサディズムと限りなく現実に近いフィクションの間、そのの交点を探して頭を悩ませて、沸騰、なかなか先に進まない。

昔トランプの中央に斜めに線が入っていて、上下で絵柄が鏡映しになっていたカードの、わたしとわたしのその絵柄が合わないようなカードしか手元にない感じ。

 

このセメスターで受けている非常に実のあるセミナーで、韓国社会が欧米圏で評価を受けた作品の中に潜むフェミニズムにおける問題やオリエンタリズムを暴くという趣旨のポスドクの学生の授業なのだけれど、本人は韓国人でここウィーンに居て、そして聞いている学生はほとんど欧米圏の出身で、すこしアフリカや私のような、公式に第三国扱いされる出身者が混じっている。アメリカ合衆国をアメリカと呼ばないで、U.Sアメリカときちんと区別してほしいと注文が出るくらいには、オリエンタリズムにおいては欧米の学生には耳が痛いセミナーのようで興味本位だった参加者は、そうそうに退散していった。

 

彼らはほとんどがファインアートの学生かクリティカルスタディの学生なのだけれど、私が普段いる劇場、パフォーマンスの学生とディスカッションへの入り方が違って面白い。彼らは、この講義を行っている韓国人の学生に「同情する」という意味での共感は寄せるが、他者性や当事者性については、内容を自分ごとに置き換えて発言を始めるのだ。もしくは自分が知っている欧米圏の作家を例にして。

 

この自分のカードにすり替えるうまさを見ていて、オリエンタリズムがネオオリエンタリズムとなって、そしていまだに、こんな狭い、シンボリックなスペースにおいても理解されないものかと、割と驚いています。

 

でも彼らにはそのカードしかないのです。自分のカードのエースの絵柄と、彼女が話している韓国社会のエースの絵柄が根本的にトレードされるものなのか、ということについてゆっくり考える時間が、セミナーという毎回3時間で切り取られる世界では中々難しいのだと思います。

 

この授業を受けていて、よりいっそう、私が今、制作において切ろうとしているカードは、誰のカードなのかを考えてしまいます。使いたいテキストがあったとして、新しい解釈で発展的に使用したと思える場合と、自分の都合のいいように利用しただけになってしまう場合について考えては、うーーーーーんとうなって前に進みません。

 

一から書けばいいのか。

でも、文脈の中からすくい上げてその引用元に引き戻したいと思うのは強引だろうか。

 

私は私が見たいものを見ようとしているのではないか。

この授業でも別の教授が言っていたが、人が見れるのはそれぞれが違うのだということだけだ。見たいように世界を作り替えることと、作品の骨組みとなるフィクションをひくのは別の作業だ。わかっているのだけれど、自分を永遠と疑ってしまう。

 

カードゲームのように奪い合ったペアを捨て去って一抜けしないように

大いに頭を悩ませなければいけない気がしている深夜3時。

卒業時期が伸びそうで怖いです。笑。いや、笑えん。