2017年までを総括。未来は予想を上回る。社会人から留学生への編年。

タイトルそのままに。

 

ウィーン情報もカナダ情報もありません。いつも通りの、それ以上の独り言です。

 

私の2017年は自分でも全く予想外の展開となりました。1年前はまさかウィーンに住んで、大学生になり、ドイツ語を勉強しているとは想像もつきませんでした。もちろん全て自分で選んだ道なのですが、「どうしてこうなった?」と自分でもよく思います。

 

朝起きて、電車に乗り、通学する。ドナウ川を車窓から眺める。ウィーンの街並みに普通に溶け込んでいる(つもりの)自分に不思議な気持ちになります。

 

 

ターム1:デンマーク

そもそもはデンマーク留学が発端でした。デンマークのフォルケホイスコーレで過ごした10ヶ月が私の人生を変えました。それまで日本で悩んでいたことから、不思議と解放されました。日本人であるこや、母国とはなんなのか、外国人としての生活、芸術や創作や制作が日常の延長に存在するってどういう空気なのか。そういう新しい空気が私の人生に風穴を開けてくれました。それが26歳。10ヶ月を経てデンマークに残る選択肢もありましたが、その時は心の底から「日本に帰りたい」と思いました。ただ漠然と、30代はまたヨーロッパに戻るかもしれない、もしそうなら根を少し下ろそうとだけ思っていました。専門的に勉強するのがいいかもしれない、くらいに。

 

ターム2:日本での3年間

日本に戻って、興味の赴くままに好きなアルバイトをしてぼんやりと日本の生活に戻りました。自分が住んだことのない土地に住みたい、好きな場所に住みたい、と日本の中で数ヶ月別の土地でも生活しました。ただ時間の流れがどんどん早くなるのを感じて少し焦っていました。私はそれまでフリーランスとアルバイトしかしたことがなくて、社会を知らないんじゃないか?という不安に駆られました。ちょうどそんな時に、家族ごとで実家のある土地へ戻ることに。先のことはわからないけれど、日本の今を知りたい、普通の生活(いい意味で)を知りたい、と思い会社員になりました。

 

会社員生活は最初こそとても戸惑いました。アルバイトを除けばそれまでの仕事は「成果」「結果」しか求められませんでした。そこまでの過程は関係ありません。誰かと工程を共有する必要もありません。周りで働いている人は全員プロ。誰かのお世話をする必要もありませんでした。私に期待されていたのは「良い結果」であり、その期間「付き合いやすい人」であり、自分の専門分野を全うすることでした。でも会社は組織です。工程を共有し、人を育て、全体で達成されていく。働いている目的が違う人たちの集まりです。8時間働いて、それで終わりという人もいれば家でも新しいことを考えてくる人もいる。環境にこだわり、公平を求めて訴えを起こす人もいる。

会社員を経験したのは、とてもいい選択だったと今でも思います。私は幸いとても素敵な人に囲まれていました。もちろん苦手な人もいたし、悩みもありました。傷ついて泣くことだって人並みに。ただ近しい人達は明るく、楽しく、一緒に頑張る。そういう人達でした。お給料も安定していたし、上司も人情味のある優しい方々で評価もオープンでした。注意もしてくれ、褒めてもくれる。辞めずに働いていても幸せだったろうなと思います。

 

じゃあどうして辞めて、今ウィーンに居るのか。

 

2年が経った頃、30歳になりました。私は会社で自分が何を求められているのかを考える余裕が少しですが生まれました。直接聞いたことはありませんでしたが「人を育てる」そういう年代に入ったのだということだけは感じていました。私は「人を育てる」ことから逃げたんだと思います。今の自分にはまだ早いと思いました。でも30歳になると後輩が増え、職場に2年いれば自分より社歴の浅いアルバイトの人も増えます。私がどんなに人間として未熟でも、「先輩」として立ててくれます。それが怖くなりました。気がついたら偉そうな自分に幻滅しました。私は謙虚に自分を見つめ律することができるほど成熟していませんでした。このまま、この恵まれた環境に居たら、私はとても嫌な部分だけがどんどん増長していくような気がしてしまい、安定した生活に恐怖感が募って行きました。贅沢ですが、違う未来を考えるようになったんだと思います。

 

でも、いつかは誰かを育てられるような、手伝えるような人間にはなりたい。

少なくとも家族を養えるだけの力はつけたい。

こんな邪念が生まれないほどの、何かを勉強して、情熱を傾けて、自分を磨きたい。

 

そういう気持ちと同時に、デンマーク時代の恩師が未だに「あなたは何をしているの?」と問いかけてくれることで、忘れていた制作すること、芸術の世界への未練を思い出しました。デンマークから帰国した時にぼんやりと考えていた「専門的に勉強したい」という気持ちが帰ってきました。それが30歳、会社を辞めようと決めた時です。

 

ターム3:カナダ

そこからは、行き当たりばったりでした。

あと数ヶ月で30歳から31歳になる自分に何ができるのか、どこに行けば無理のない環境なのか。日本の大学や通信教育も最初は考えました。弟子入りするとか、バイトから何か極めるとかいうことも考えました。でもどれもピンとくる道が見つかりませんでした。そして、漠然と海外の大学で勉強しよう、という目標を立てました。それが2015年。そこからギリギリのタイミングでワーホリビザを申請してカナダへ渡航したのが2016年4月。当時の私は英語なんて中学生以下、大学へ行くなんて夢のまた夢でした。それが想像以上の孤独なカナダ生活を経て、現実になりました。バイトと勉強以外やることがない、遊ぶ人もいない、自然と自分と向き合う時間だけが積み重なりました。そこで徹底的に「自分がどの表現で行きていくのか」を考えました。考えて、考えて、考えました。その上で、自分が何を習得し、何を専門的に学ぶ必要があるのかを見つけることができました。それが2017年の年明けです。そしてその時に見つけたのが今在籍している大学の専攻と教授でした。

 

ターム4:ウィーン

漠然と見えた道を手繰り寄せて、日本に帰り、準備をし、ウィーンへ試験を受けに行きました。試験前日まで本当に受けるのか正直悩んでいました。もう32歳、順調に卒業できても36歳。大学出たからってどうなるんだろう。ウィーンなんて縁もゆかりもない土地で、資金もなくやっていけるわけないのに。私って本当の馬鹿なんじゃないかって。

 

でも母に言われました。「何者かになる必要なんてないじゃない。一度きりの人生で、それがどうなるか気にせず、今を生きることの方が大事だと思う」と。

 

「あなたはアルバイトで生計を立てることを恥ずかしいと思わないだろう。どんな仕事も馬鹿にせず、働けるだけの体力を社会人の10年間でつけた。人生の中で振り返りたくなるほどの瞬間を持てるかもしれない、それだけでいいじゃない。将来小さなアパートであの時ウィーンで頑張ったな、と思うのはそんなに不幸だとは思わない」

 

結局悩んでいた気持ちを吹き飛ばす嵐に呼ばれるように、大学に受かり、今ウィーンで生活しています。ここまで悩んで迷って5年。今もそれは変わらない。五里霧中。

 

これが私の編年。

先が見えないので、もう見ないことにしました。

いつか霧が晴れるのを、手が伸ばせることに集中して、ただ待つことにします。

 

みなさま良いお年を!

2018年。穏やかでありますように!