オーストリアとドイツ

語学学校のインターバル中です。1週間ほどのお休みを経て8月はB2.1にジャンプします。授業についていけるのか心配ですが、できる準備をして臨むしかなかろう…最近は12時間勉強の日々です。受験生みたいです。でも冷凍庫がありますからね。コーヒを凍らしてフローズンにして楽しんでます。

今更ながら大活躍。笑

 

でも、そんな合間をぬいながら、読み始めた本があります。

エルフリーデ・イェリネク著

「死者の子供たち」

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原題は"Die Kinder der Toten"

オーストリアの作家で、ノーベル文学賞も受賞しているイェリネクの長編の代表作でもあります。本当は前セメスター中に読み終えたかったのですが、時間が全く取れずに過ぎてしまいました。ですが、6月のある出来事を経て、この夏中にどうしても読み終わらなければいけないと思い、少しずつページをめくっています。

 

 

数日前に書いた記事に登場した私の同級生。

 

kiikiii.hatenablog.com

 私が知る限りの、最大の喧嘩は6月の研修旅行中の電車の中で起きました。

その時は、ドイツ人の先生と、彼らと私の4人。2時間弱の電車の移動中。

オーストリア人の彼が、ドイツ語圏の人々を指して「wir」を使った事にドイツ人の彼女が怒ったのです。*wirはドイツ語で「私たち」英語のWeに相当します。

 

普段も言い合いになる2人ですが、彼女があそこまで静かに怒ったのは初めてでした。

「私たちは”私たちではない”」とはっきりと言い切りました。でも彼にはピンときていませんでした。「こんな狭い土地で、同じ言語で、同じ歴史を通ってきたんだ。どうして線を引くんだ」と。

 

私と先生はただ2人の言い合いを静かに聞いていました。これは私のクラスの風習で、一対一で議論が加熱した時には見守ります。多数決で話がそれるのが嫌だからです。

議論の場合は、結果を求めて集結する事はないので、お互いに徹底的に意見を並べ尽くす、というのが一応の終了の合図です。ですが、この時は議論というより喧嘩に近かった。彼女は理由を大して述べることもなく、うんざりと強制終了。いつも冷静な彼女をあそこまで怒らせた理由が私にはよく分かりませんでした。

 

一般にオーストリア人とドイツ人は仲が悪いなんて聞きますが、私の周りでは全くそんな空気はありません。まぁたまに聞きますが、ネタ半分ってところです。関西人は、東京はなんて、そのぐらいのテンションでした。シリアスな唯一の出来事がこれでした。

 

翌日まで、尾を引いたこの喧嘩。空気を読んだ先生が、それぞれに別の課題を与え、私以外の二人は別の場所へ散っていきました。先生と2人きりになった私は、先生にその喧嘩について聞いてみました。どうしてあんなに怒ったんだろう?と。

 

先生は「ドイツ人の彼女が怒った理由は私にもよくわかる。私もドイツ人だから。私たちドイツ人はナチス時代の過ちからホロコーストについて、それは徹底的に勉強するのよ。そして恥じて2度と同じ過ちを犯さない。そのためにナチス時代のものを残すことはヨシとしてない。街も、文化も、あの時代を境にリスタートしたの。捨てたのよ。そうしないといけないからね。でも、オーストリアはそうじゃない。その事について、彼が理解せずに”私たちは”としたことに怒ったのね」と。

 

そして加えて「だからサッカーが好きなのよドイツ人は。その時はドイツ万歳って言ってもナショナリズムだと批判されないからね。まぁ、そういう側面もあるわ」と。穏やかにそう説明してくれました。

 

私も幸運なことに、小学生の頃、それは徹底的に戦争教育とホロコーストについて勉強させられました。当時の担任の先生がそれは熱心に授業してくれました。多少トラウマになり、戦争映画をエンターテイメントとして見ることが出来なくなるほどに。ですが、そのぐらい心に傷を作ってしかり、と言う歴史だと思うので、そう教えてくれた先生に感謝しています。

 

それでも、私の知識は彼らには及びません。私はオーストリアとドイツの間にそんなものが横たわっているとは知りませんでした。そして、まさにそのことに切り込んだのがこのイェリネクの「死者の子供たち」です。

 

私は海外の人が広島・長崎、そして福島のことを軽々しく口にしたりネタにするのに嫌悪感を覚えることがあります。彼らの主張として、それらは日本の問題ではなく、世界の問題だということを考慮しても。じゃああの震災以降も、あの事故以降もその土地に想いがあるおじいちゃん、おばあちゃんはどうなるんだ?という一人の、ただの日本人としての気持ちが捨てきれないからです。だから、その状況も理解した上で話そうよ、という人でない限り、どうしても心が拒絶してしまいます。良くないとわかってます。

 

私の専門分野はどう足掻いても、歴史や政治と切り離すことが出来ません。

ミュラーの言葉を借りるならば、私は常にある素材の中にいる。

ここウィーンで、ドイツ語で勉強している以上、私はきちんと知らなければいけないことだと、あの6月の車中での出来事で痛感しました。

 

前セメスターでイェリネクを題材に持ってきた社会記者の戯曲の先生。日本語版を読み始めたと話すと大層興奮して、本を写真に撮り、イェリネク本人にメールしていました。そして次の授業で会うと「イェリネクが君によろしくって言ってたよ。そして読み終わったら感想を送ってほしいって言ってるよ」なんてニコニコ笑顔で話しかけてきました。日本人でも読んでいる人沢山いますよ、と言ったのですが、彼女は日本語版の出版の契約書にサインしたっきり、日本人のリアクションは知らないからね。とても喜んでいたよ〜とのことでした。なるほど。

 

感想文を提出するかは、横に置いておいて。じっくり読みたいと思います。