最初を思い出して

相変わらず気持ちが不安定なまま今週を迎えて、毎朝夜とびーびー独りで泣いては、目の下と鼻の下にクリームを塗る。泣きすぎなので、顔の皮が塩水に耐えられずにヒリヒリしていて、ナンテコッタな顔。それでも大学には毎日行って、授業を受けて、制作をしているのは自分で何が原因でこうなったのかがやっぱりよく分からないから。

つまりは、何から離れて休養を取ったらいいのかわからないので困っていた。

 

さすがにアトリエでどっぴゃーと泣くほどではなくなって、朝晩に一人で部屋で流し切る!みたいな日々だった。それでも火曜日の夜。夜のデッサンの授業からの帰り道に涙がボロボロ。もう疲れた。なんなんだ!という気持ちになって、自暴自棄で「何かしたいことをしよう」と思って帰りにスーパーで普段買わないようなものを値段も見ずに好き放題カゴに入れてみた。返済義務のない奨学金を頂いている身として、自分のお金ではない、支援で生活している身として、どうにも財布の紐は硬くてそれはそれは質素に生活してきた。別にそれが辛いわけでも嫌なわけでもなかったのだけれど、好き放題買ってみたらなんだかすっきりした。でもそれがスーパーの食材ってところが笑える。二千円程度なもんだ。

 

週半ばで、なんだかから元気な私に先生が両肩を掴んで「kiki悩みがあるなら言いなさい。そしてその悩みは大抵解決できるんだからね。疲れてるなら考えすぎちゃダメだ」と力説。おっしゃる通りだけど、バレてるじゃん。

そうもうバレバレ。私は友人たちの中ではなんだかいつも笑っているハッピーな人だと認識されているので、ちょっと元気がないだけで「alles gute? ok?」って聞かれてしまう。今も昔もそうやって周りの人に支えられて生きてきた。

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魔法のかけ方。

家に独りでいると、頭の中で自分がこの窓からジャンプする光景が浮かんできて、ジャンプしたらどのくらい痛いんだろうかまで考えて、そんなことに囚われている自分が怖くなって家を出た。なんの理由もなく窓から飛び降りるなんて正気の沙汰じゃない。どこで私は壊れてしまったのだろうか。

 

今までどんなに辛い問題があっても、そのことと向き合って自分で解決方法を考えることが出来た。誰かに相談することも出来た。でも今はそれが出来ない。だって問題がなんなのかが自分でよくわからない。

 

とにかく飛び降りるなんて冗談でも考えちゃダメだし、でも今は自分が一番信用ならないから人のいるところに行こうと思ってアトリエで課題をすることにした。アトリエには誰もいなかったけれど、でも人の往来があって、自分の家じゃないだけで一人じゃない安心感があった。自分の作業台の前に座ったら、手を動かしたら少しは落ち着くだろう。いつもそうだ。でもそれはほんの1時間程度で終わってしまって、気付くと手は動いているのに涙が流れて、しまいには嗚咽。声が出るように泣くと苦しい、これも今週何回目か。これが永遠に続いたらどうしよう。そんなの耐えられる気がしない。誰にも好きになってもらえなくなってしまう。どうしようとそればかりが押し寄せた。

 

音楽をヘッドフォンで流して作業していたので誰かが来たのに気がつけなかった。友達がただ私が音楽を聞きながら作業していると思ってそっと肩に手を置いた。「kiki〜」と話しかけられて、振り返った私の状態を見てぎょっとした。そりゃそうだ。こんな昼下がりに、独りでアトリエでこんなの気が触れたとしか思われない。もう限界で、口から「家に独りでいると窓からジャンプする自分が頭の中を駆け巡って怖くてアトリエに来た」と言ってしまった。彼女は驚くでもなく、真剣に私の嗚咽交じりのその一言を聞いて膝をついて私の腰に抱きつき、私が落ち着くのを待ってくれた。そして、何があったのかと、でも何もないという私の言葉を丁寧に聞いてくれた。

 

私は今まで自殺する人は、何か明確な理由があったのだろうと勝手に想像していた。生きている人間からすれば、死ぬくらいならまだ出来ることがあるだろうにと思ったこともあった。日本で一時期自殺した子供に対して「死んだら負けだ」という発言が議論を呼んでいたけれど、どれもこれも、そういう状態の人には届かないだろうと思う。響かないだろうと思う。そういうことと向き合える精神状態が残っているなら、そもそも誰かに相談したり助けを求めたりするだろうし、そういう状態の先があることを、私は知らなかった。そしてその境界線は目に見えなくて、どこで自分がそれを渡ったのかわからない。ただ、その線を超えたら、もう自分で「何が」そうさせているのか考えるのが難しくなる。だから誰かに相談する時期を逃してしまう。そして多くの人がそれを知らない。知らない方が健康だ。でも健康な人のアドバイスが届く範囲には限界がある。

 

こんなことをこのブログに書けば、もうここに楽しことを書きづらくなるし、私の顔を知っている人も読んでいる可能性があるから、こんなこと晒す必要ないと思っていた。私は気が触れたおかしい人だと思われて、もう友達でいてくれない人もいるだろう。何より辛いことを吐き出したつもりが、そんなこともあるよね〜っと軽く流されれば、ただもう一度傷つくだけだ。そして人は何かそういう重いものを持っている人と距離を置こうという本能を兼ね備えているように思う。私は高校生の頃にパニック障害を発症して高校の3年間が大変だった。独りで大変だった。肉親を含めて、私のその状態に真剣に向き合ってくれた人はいなかった。明るい顔で笑っている私を好いてくれても、泣いている私も苦しくなった私も、誰も触ろうとはしなかった。その時も普通はこんなことにはならないんだから、こんなことになった私は間違ってるんだし、だから周りがそういう私にだけ冷たいのは当たり前だと思っていた。何より何か相談する内容があるならまだしも、それすらないのだから、相手だってどうしたらいいかわからない。

 

でも私は専門学校を皆勤賞で卒業した。

高校3年になって、未だに満員電車に乗れずに遅刻してくる、早退する私の状態を唯一知っていた保健室の先生が私に魔法をかけたのだ。ある日、どうにもならなくて早退しようとする私に先生が「私も同じ方向に用事があって行くから一緒に行こう」と言ってくれた。そして一緒に電車に乗った時のこと「何年も前に卒業した生徒であなたと同じような子がいたんだけど、その子は専門学校に行って、皆勤賞だったんだよ。好きなことなら出来るから、大丈夫だよ」と話してくれた。

 

大人になって思えば、先生のあの時の話も、同じ方向に用事があると言っていたのももしかしたら本当の話じゃなかったかもしれない。でも不思議と当時の私は盲目的にその言葉を信じて、そうかじゃあ私にもやりたい事があるから、大丈夫なんだと思えた。そしてその通りになった。保健室の先生は私に一度も「何が辛いのか」とは聞かなかった。私が保健室で寝ていても、何かを諭したり説教したりもしない人だった。よくラベンダーの香りのするアイマスクを貸してくれて、これをすると眠れなくても疲れが取れるんだよ、すごいでしょと笑っていた。だから先生が唯一話したその話が鮮明に記憶に残っている。ラベンダーの香りを嗅ぐとその笑顔を思い出して、自分が一度は乗り越えられたことも思い出す。先生は魔法のかけ方を知っていた。

 

昨日は友達が夜まで側にいてくれて、後から来た友達が一人じゃないんだから一杯くらい大丈夫だとビールを持ってきた。誰も何も聞かなかった。少しどうでもいい話をして、そして作業に戻った。今週初めてやっと涙が止まった。

 

私は友達と約束した。今度またそのイメージが現れたら、何も考えずに彼女に電話すると。彼女が忙しいかなぁとか、何も考えずに電話して一緒に散歩すると約束した。

生まれ直して成長痛。

この数週間、精神的にとても不安定でたまらない。

ベットの頭上にある大きな窓のあるこの部屋は、今の私にはたまらなく危険だということを昨夜感じて怖くなった。何がどう繋がっているかわからないけれど、自分の心が折れた音が聞こえて、その恐怖に耐えられないのでここで吐き出そうと思う。

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被害者ではなく加害者。

3月11日午後2時46分。

私はいつもこの時刻をどう過ごしていいのか分からない。日本にいれば黙祷の号令にしたがって、そっと目を閉じ祈るが、その祈りも半分懺悔に近い。

 

私は東北に親戚も親しい人も住んではいなかった。でも当時日本に、特に東北から関東に住んでいた人にとっては身体を貫いたあの揺れとあの光景は忘れることがないだろうと思う。私がその一人だ。

 

私はその日、深夜に仕事があって、日中は自宅に居た。身の危険を感じる揺れに、慌てて窓を開け、2度目の揺れで外へ出た。平日の日中に家にいる人はそう多くなく、近所の同じように外へ出てきたお婆さんと驚きと恐怖を共有した。これはただ事ではないと思い、家に戻りテレビをつけたら東北地方で地震があったとどの局もニュース速報に変わってた。そのライブ映像は、そのあとに起こる津波など想定していないので、津波が押し寄せるその瞬間、人が流されていく様まで映し出していた。何が起こったのかよくわからない。人も車も家もジオラマのように流されていき、千葉に映像が切り替わればタンクが燃えている。

 

東京の街は夜を取り戻したかのように、目を差す光が姿を消した。原発事故の重大さに気がつくまでに数日がかかった。それでもなお、電車は動いているし、家がある私たちは働くしかない。夜の地下鉄の中で、ライトの眩しさに罪悪感を爆発させ嘔吐したのを覚えている。まるで資本主義という名の味のしない酒を大量に飲みすぎたような気分だった。その罪悪感は未だに消えていない。

 

それから半年もしないうちに、私はデンマークで暮らしていた。

海から吹きつける突風を利用した風力発電のプロペラが回るその光景を浜辺でじっと眺めながら、国の規模が違えど、でもそういう理由じゃないことだけは足りない頭でゆっくりと理解し始めていた。再生エネルギーやエコロジーに対するデンマーク国民の取り組みは現実的であり、生活に根ざしている。実態があるその姿は、まるで自分が亡霊のようにすら感じたもので。

 

私は、未だに原発が稼働し、何が安全で何が本当の情報なのかを知りえない、そういう空気を作り出している加害者だろうと思う。原発に対するすべての情報が操作されている、嘘だ、とは思わない。現に安全性について研究している研究者の先生のお話を聞くこともあったし、その人が嘘をついているとは思わない。でも福島で起こったことはそういうことじゃないような気がする。科学的な絶対が自然に負けることはある。政治や社会について、興味も意見もあるけれど、それ以上に日本国民の声は政府には届かないということも冷めた部分で認めてしまっている。だからデモに参加したり、政治活動に参加しようと積極的に思えない。それがそういう空気を押し流している悪循環を生んでいるのだろうが、それでも砂に針を立てるようなもので、私は違う方法で自分の加害者としての罪を滅ぼしたいと思う。

 

Marina abramovicのMoMAでのドキュメンタリーをふと見返していて思った。

欧米で福島を題材にするアーティストが私は基本的に好きではないし、大抵の場合は憤りと怒りさえ覚える。というかそういう趣旨のエッセイをファーストセメスターで突きつけて、ドイツ人たちに物議をかもした。でもその気持ちは変わらない。アーティストによくいる、批評家ぶって社会を風刺するのに他人の題材を扱う作家が私はそもそも好きではない。彼らには災害もなければ、安全な家があり、大抵は笑えるくらいに平穏な家庭に育っていることが多い。自分が傷ついたことがないから、皮膚を切り裂く痛みがわからないのだろう。私は生涯ナチスを題材にすることはないし、それにはそれ相応の理由と責任が必要だ。Marinaは自身の身体を虐待的に晒すことで、人が目を背けたくなる光景を私たちに提示してきた。痛みを伴うその作風は、私にはまだ飲み込みきれない部分も多い。そして63歳、MoMAでの作品では、ビー玉のような眼差しで自分の目の前に座る観客を見つめた。それは壊れた家や荒れた土地など見せなくとも、その人の中にある痛みをとり出せるだけの力を持っていた。

 

私が3月11日をどう過ごすべきなのか戸惑うのは、今も刑期を終えていないからだし、そのことがいつか終わるのかもよくわからない。ただ少なくとも、日本人というだけで震災の被害者のように扱われることがあるが、むしろ私は加害者だから…だから何を自分のことのようにも言えないけれど、でもそれは紛れもなく私の問題だ。

 

ただ一つ、福島は被災地だった。

今も爪痕は残っているし、まだ解決されていないことも多い。日本中で原発問題に何らかの明確な回答が得られるまでは、そのシンボルとして何年たっても被災地と呼ばれるかもしれない。福島での出来事を、次の世代の教訓にし、問題は解決しなくてはならない。だから被災地としての責任を負ってくれているのだろうと思う。でも3月11日に生まれた子供もいれば、8年前まではお誕生日をお誕生日として曇りなく祝っていた人たちがいるし、願わくば今年も美味しいものを食べて、あなたの生に感謝できていることを祈るばかりだ。もう誰もこれを理由に傷ついては欲しくない。

ヨーロピアンの団体行動は謎だらけ。

かれこれヨーロピアンに囲まれての生活も長くなってきましたが、時が経つにつれて謎が深まることが一つあります。彼らの団体行動に対する概念。

 

これは明らかに教育の差な気がしますが、どうなんだろうか。

そんなわけで私の抱く団体行動ミステリーを箇条書きしていきます。

  • 縦で役割を振らない
  • 話し合う。それはもう長時間話し合う。でも最終事項が曖昧なまま会議終了
  • 故に、えっ実際にやるのはどの案で?教えて?ってなる
  • でも誰かに聞くと、誰もが私と一緒でさぁ?ってなってる
  • でもそのまま団体戦に突入。
  • 何したらいいかなぁ?って聞くと、知らないよ〜ってキレられることすらある
  • つまりは、自分がしたいことだけすればいい
  • 団体行動とは小さい個人活動が同時に発生しているだけに過ぎない
  • だから、自分がしたいことで、誰も手をつけてないことを自分で勝手に実行
  • ということは、もちろん会議での最終案っぽいものが全部達成されることはない
  • なぜなら、全部達成するという責任を誰も負っていないので
  • 行動に参加しなかった人に意見する権利はない。それが彼らのルール
  • 口だけ出したって誰も相手にはしてくれない
  • いいと思うことは、自分でやれ、さもなくば何も起こらない
  • そう、それが彼らの意味する団体行動

 

こんな感じで、私の周囲は団体行動を行います。言葉が分かるようになっても、これだけは謎が深まります。学生だからか、はたまた芸大生だからだろうか?

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ウィーンで髪の毛アレコレ第二弾。想像の斜め上をいく仕上がり。

かれこれ最後に髪の毛を切ってからもう4ヶ月。いよいよ、みすぼらしい感じになってきたのでまた牛丼美容院へ行こうと思い予約の電話をしました。

ですが、タイミングが悪いのか、接客中なのか、はたまた一時帰国中だろうか?韓国マダムに電話が繋がることはなく数日が過ぎていました。あっ牛丼美容院の経緯はこちらへどうぞ。

kiikiii.hatenablog.com

 そんな感じで夏セメスターがスタート。仕方なく髪の毛をこねくり回して無理やりアレンジしていました。するとイタリア人の友達が「kikiのアレンジ可愛いね」と声をかけてくれ、「いや〜美容院行きたいんだけどさぁ。カクカクシカジカ…」って髪の毛の話題に。すると彼女「私、人の髪の毛切るの好きなんだよね」と言うではないか。

 

そこで考えた。

牛丼美容院の韓国マダムはとても気さくで、チョっ早で、安いしいいのだけれど。

過去に3回全く違うヘアスタイルを希望して写真を見せたけれど、毎回それとは程遠いい同じボブ仕上がりなところが頂けない。でもウィーンではどうせどこへ行ったところでそんなもんかと、もはや悟りを開いていた私。清潔になればいいかってね。たとえ毎回ボブ一択でも。

ということは、友達がもし失敗して可笑しなことになっても、あの韓国マダムは私の髪をまたいつものボブに戻せる気がする。なんか面白いし、友達に切ってもらおう!

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春なのでまっさらに。

ドイツはハンブルグとベルリンに弾丸旅行に行ってきました。

同じスタジオで勉強していた友達が卒業して、初めての作品がハンブルグで上演されたからです。ベースとなったのは彼の卒業制作で、それはそれは本当に素晴らしい作品でした。今回劇場で正式上演となったものは、彼の作品からインスパイアされたもので、実態は別のものでした。というのも、今回彼を誘った企画者がすでに初演を終えたものに加筆されたコーポレートピースであってショートタームで制作されたから。それも、それなりに違うテイストで面白かったです。批評も抜群だったので第二弾があるかもしれません。とても素敵な夜でした。

 

久しぶり、とは言っても1ヶ月ぶりに会った私たちの話したいことは留まることを知らず。ハンブルグの街をブラブラしながらだぁ〜っと様々なことを話しました。ハンブルグは美しい街です。日差しも春、散歩日和でした。

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彼は今の教授のファーストジェネレーション。そしてドイツ語が喋れないのに合格をもらった唯一の先輩です。彼から時が経つこと5年、わたしがそんな無謀な二人目。出身国こそ違えど、彼は母国でペインティングの学位を取得していて30代、これがセカンドスタディーと共通点の多い私たち。彼は私の日々の言えない悩みを、そっと救い出してくれる親友ですが、何より「これが美しい」という琴線が近しいというのが急速に仲を深めた一番の理由です。

 

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