怒りが理由の最上位にきてほしくないと心底思った夜。

クリスチャン・ルパのProcesと言う演劇を見てきました。5時間15分の演劇ですが、最後まで客席にいたのは5分の1でしょうか。

 

クリスチャン・ルパはポーランド人演出家で、ポーランド演劇界では非常に評価の高い人です。私は2016年に彼が日本に招待された際のシンポジウムをまとめた本を読んだことがあり、ずっと興味のあった演出家です。加えて今回はカフカの審判を原作とした演劇で、舞台は簡単に言えば「ポーランドが超コンサバティブ社会だった場合にカフカの審判が現実に起こったら」を仮定して5時間の話が展開されました。

 

一緒に見に行ったクラスメイトの殆どは最初の90分で怒って帰ってしまいました。

最終的に最後まで見たのは私と先生と同級生一人の3人だけでした。

 

クリスチャン・ルパが非常に政治的なテーマを持った演出家で、さらにカフカをどう捉えていたか、そしてカフカの審判を読んだことがあれば。そんな私からすればある種納得のいく演劇でした。観客に中指を立てるような演出に面食らって最初の90分で席をたった同級生たちに伝える気はサラサラありませんが、ただ一言言うなれば、審判とは範たるか、そして今どれだけ世界がコンサバか、ということを5分の1しか残らなかった客席が物語っていたと思います。

 

怒りにまさかせたら、目を背けていいのか。

自分の美学と相反したら、それは悪いものだとレッテルを貼る権利があるのか。

 

私からすれば、「ねぇこれがアートよ、私の美学。どうきれいでしょ。イケてるでしょ。センスあるでしょ」ってなほうが中指立てたくなります。そりゃ綺麗よ、美しいかもしれない。でも誰にでも作れる、大衆一般論を芸術と呼ぶことには一言物申したいけどねって感じです。そしてそれ以上に、よくないと思うもの、理解できないことを全て相手の責任とするのは、アメリカが世界警察だと勘違いしている事象と通づると思うのです。怒りに任せて、無知な自分を棚に上げてなんでもつぶやいていいってわけじゃないし、その間に「知ろうとすること」や「疑問を投げかける」感覚を持ってほしい。そしてそういう繊細さが、誤解を恐れずに言えば、欠けたことによって戦争も差別も生まれるんじゃないかと思うわけです、個人的には。

 

 

もちろん、今回のルパの作品は全編を通して、確かに要素が喧嘩して、意味がわからなくて、バカにしていて、そして醜いシーンの連鎖だった。5時間15分をそれでも座って見ようという人が圧倒的に少ないであろうことも、それがこの演劇の目的の一部だっただろうと思います。彼がどういう理由でそれらの膨大な要素をカットせずにごちゃごちゃに暗い闇へ投げ込んだのかは、正直カフカの審判を読み、舞台に惹かれた赤い線が第四の世界との境界線であるであろう理由や、ポーランドの現在の政治傾向を知らなければ消化できないだろうと思います。

 

でも、話は戻って。

私は自分が理解できないことは、最初に疑うべきは自分だと思う。

芸術にヒエラルキーがあるのか、ということと、世界にヒエラルキーが存在していいのか、ということはある種イコールだと思うから。良いと悪いの間には必ず理由が存在するはずで、そこを飛び越えて議論し始めたら、もうそこには「より良い社会」というのは存在しないような気さえします。

 

演劇それ自体が、美しくなく、混乱と暴力と怒りに満ちていたとしても。

それ以上に、そういう全てが世界には存在しているし、それを見つめる必要があるということがこんなにも伝わらないものかと、とても淋しい気持ちになった夜でした。