出来ないことの方が多いからね、私は。

日本に短期留学中の友達からSOSが届いた。

コロナ対策で留学先の大学はこちら同様ZOOMで講義の授業をメインで行っている。もちろん日本語で。そしてオンリー日本語で。時々英語が話せる先生の時には英語の注釈もあるそうだが、全ては網羅してくれない。

 

そして私が留学前に繰り返して伝えていた通り「同じ専攻はない。名前が同じだけ」をひどく実感したという報告もあった。私に気を使って言葉を濁していたが、他の友達には超辛辣な辛口コメントを残している。「学べることがない」と。

 

そうなのだ、だから私がこんなに苦労してここで勉強しているんだった。笑

 

逆をいえば日本の学生が、こちらに来ても同じことを思うかもしれない。「学んだところで日本で活かせるところがない」と。つまりは名前は同じでもベースとしていることと、目的としていることと、繋がっている社会が違うのだ。そう、違うだけでもある。

 

そんなわけで、日本語は理解できない、クラスメートにも先生にも一度も会ったこともないのにグループに属している違和感は凄まじい様子。面白いのが、休憩の時だけMr.〜ブレークタイム、と呼びかけられる話。学生にMrが衝撃だったらしく、それは日本語の「君」か?と聞かれたので、ドイツ語で言うSieみたいな距離感かもね、と二人で笑った。日本人の礼儀正しさに驚くことが多い様子である。

 

というわけで、内容も重ならない、わからない言語。今発生している問題は、それでも単位をもらわなければいけないということ。コロナで授業がオンラインに切り替わってしまうことが分かった段階で、彼はもうすでに日本に居て、奨学金の支給が始まってしまっていた。当初は、予期せぬ出来事なので「参加」すればいい、とウィーンの大学から言われていた。のだが、ここに来て「参加」では事足らない、単位を提出せよ、となってしまった。さもなくば受給した奨学金を全額返金せよと。

※もともとプラクティカルな授業だけを取る予定であり、講義を取る予定ではなかったことを補足します。芸大でないと想像が難しいと思うのですが、講義を受けて試験をして単位を取得する授業はそもそも予定に組んでいませんでした。それがコロナで講義以外が受けられなくなってしまった。留学に関連するエッセイ等もドイツ語で選考が済んでいました。日本語能力がなくても単位を取得できるプログラムに該当していた、ということです。(追記)

 

 

何が問題かというと、彼はここまでの流れの中で「日本語能力はMUSTか否か」を自分で各方面に問い合わせていて、MUSTではなかったから交換留学に行った。この電話などで海外の大学に問い合わせると後から話がひっくり返るのは、あるある、だ。それがホームの大学でも。皆さんも気をつけていただきたい。大事な事は、書面に残す。

 

 

最初にSOSを貰った友達はドイツ人で、一緒に憤慨し怒りを発散させ、次にその話を聞き出した私は、ネイティブとしての解決策を提案。授業に参加し、プレゼンをするために、授業前日までに彼が書いたテキストを私が日本語翻訳したバイリンガル版にして、先生と参加者に事前に共有する事でなんとかなりそうである。

 

彼は、私が添削ではなく、100%翻訳する事に対して恥ずかしいと思っている様子で、最初はとても恐縮していた。でも思い返して欲しい。私なんてMUSTでドイツ語が求められている環境で最初の1年はほぼ英語で甘えた。私の恥ずかしさに比べたら月とスッポン。そう強くプッシュして「今はとにかく問題を片付ける事が大事だ」と説得。そもそも、留学生を受け入れるなら、もう少し英語環境を用意して欲しいよね…ともちょっと思っちゃうよね…思っちゃうのも仕方ないよね…。

 

そんなわけで、翻訳のお手伝いをしている。

これが思いのほか楽しいし、とてもいい勉強になっている。

というのも、作品やコンセプトについてのテキストなので文脈をくみ取りつつ、内容を変えない、色付けない、を気をつけると結構難しい。彼はおそらく私のドイツ語能力を考慮して、極力シンプルなドイツ語で書いてくれている。もともと父親がドイツ語研究者なので、文法ルールが基本に忠実で、他のネイティブが彼にドイツ語のルールを聞くくらいなのである。小さい頃、言葉選びが違うと父親に再三注意されたという話を昔聞いたのを思い出した。文体が綺麗なので、翻訳しながら惚れ惚れしている。

 

何より、自分がこういう事を手伝える日がくるとは夢にも思わなかった。

まだまだ、だけれど。そんな事も感慨深い。

 

留学に対する言語能力はもちろん、高ければ高いほどいいのは間違いない。現地のコミュニティに入れるし、現地のことを生活圏で沢山吸収できる。

 

ただ、これは個人的な意見だけれど。初めての留学、ましてや交換留学など短期であれば、そこに臆することなく飛び込んだ方がいいと思う。日本だったら問題ないのに、海外では言語の問題で出来ないことが多くて、自分が子供のように感じるかもしれないが、大人になってそういう体験をするのは決してマイナスじゃない。ウィーンでも色々な国からの交換留学生とちょっと知り合うことがある。彼らが英語しか話せない、それすら片言なこともある。でもそれ以上に体験で得ていることがあることなど明白で、来てよかっただろうなぁと思う。

 

本来、出来ないことの方が多いのだ。と、私は思う。

でも出来ないことを毎日更新できなくなってくる、大人になると。出来ないことが出来るようになるまで待ってもらえない、大人になると。だから自然と出来る得意なことだけで1日が終わるように生活を整え仕事を選ぶのだと思う。それも悪くない。でも、出来ないことをそんなに怖がらなくても、と時々思う。

 

変な話だが、私はここで20代の学生に囲まれて生活することによって、感覚をアップデート出来た気がしている。これは最近気がついたのだけれど、もし今、35歳としてのキャリアと生活を最優先していたら、感覚として受け入れられる範囲は違っていたように思う。教授陣が無意識に強いている、2000年代までのパフォーミングアーツが本来であれば私の年齢にもフィットして疑問などないはずだが、私の感覚は2000年代以降にアップデートされてて、ポストドキュメントなあたりがしっくりきている。これは、私が出来ないことを受け入れて、私が出来ないことを受け入れてくれる環境のおかげで。多分こういうことを「視野が広がる」と称するのかもしれない。

 

出来ない自分をいつも心に留めて、それよりも見たいものを優先したい。

 

彼が日本語クラスを1ヶ月取っただけで、全然内容の噛み合わない場所へ留学したことだけを並べれば勿体ないと言えるかもしれないけれど。彼が私に「kiki、kikiが日本は島国だ、と言っていた意味を噛み締めている。ユニークな美しい場所だ。そして全部新しい」と話してくれた時に、そんなことで諦めずに行ってよかったんだなと心から思った。

 

留学とは、言語能力を高めるためだけのものではない。

受動的に新しいものに飲み込まれる経験は、自分を見つめるとてもいい時間になると思う。彼は7月の中旬にはウィーンに帰ってくる。今から、私たちはお互いの経験を交換できることが楽しみで仕方がない。

 

私は何より、自分の目で、違う世界を見に行った彼の勇気に勇気を貰っている。