全ては結果論なんだけど、それでいいのか自問自答。

絶賛引っ越し先を検索しながら、例年通りのセメスターの期末が始まってバタバタしています。引っ越しする余裕あるかな?メンドクセーなと思うたびに、同居人の「バタ!」という信じられないドアの開閉音に目が覚めます。笑。

 

ソーシャルディスタンスを守るため、最初はビデオで初めましてのインタビューを行うフラット探し。卒業まで最短1年の私に向けられる質問は共通しています。

 

「卒業したらどうするの?」

 

就活みたいです…したことないけど。

正直、この年齢で大学を、マスターを卒業するって身を削る思いなので、もう卒業後っていうか、卒業できるか?が目下の課題なので。その先などさっぱりです。もう日々の明日までにこの400ページ読み終わる?図面今週中に上がる?来週から制作入れる?の繰り返しで、並行して毎日のオンライン授業を理解する労力で、燃料切れです。

 

もう一つは、まだ現場でのインターンに入っていないので、果たしてウィーンの働く環境に自分がどうハマるのか、想像がつきません。そちらはとりあえず、来週から劇場のアトリエが再開し本格化します。もう3年のようで、たかが3年なのです。

 

 

そんなわけで。今、1年後に自分がどこで、なんのビザで、何をしているかなど考えられないのですが。裏を返すと、とはいえ今までなんとか仕事を見つけて、お金を稼いで、次へ繋げてきたから、働くだけだ。今決めなくてもいいという「結果論ありき」な自分がいるのも否定できません。手に職があると、なおさら言葉が拙くとも仕事にありつけるという小さな成功体験をカナダでしたのも手伝って、ここで仕事したけりゃ頑張って探すだけだ。そんな腹積りです。まぁ…カナダで求人に応募しまくった2ヶ月は忘れられませんが…仕事を得るのは簡単じゃない、でも諦めないと言い聞かせるしかない。みたいな。

 

つまりは、家探しの時も、馬鹿正直にそう答えています。適当に2年は住むとかいえばもっと簡単に見つかると思いますがトラブルになりかねないのでね。

 

この結果論的遊牧民な自分を時々反省します。

今、コロナパンデミックな世の中にいて、なおさら反省することがあるとも言い換えられます。

 

人生は繰り返しのようで、そうではない新しいことに対する決断の連続だと思うのです。正しい決断など、そのうちの何パーセントだったか。知る由もないのですが、ことコロナに関してはそういうジャッジメントが常に付きまとうし、これからより加熱するだろうと感じています。

ある研究チームがロックダウンで家に留まるのは意味がなかったと分析すれば、日本の緊急事態宣言は必要なかったという人もいる。こと指揮者に関しては、とんでもなく迷走した挙句、さも成功したように宣言している。全ては結果論で、この奇妙な経過が色々な角度でこれから議論されていくのだと思います。実際、ドイツで割と信頼の置かれている感染症専門家Christian Drosten氏のポッドキャストを聞いていてそう思い当たりました。日本の政策は結果なんだか死者数抑えられたけど、理由も経過も結果も不明瞭で、専門家の見地からすると、同じケースを成功例として採用しにくい。そんなような話をしていました。結果論が歓迎されるには、経過の透明性が求められるんですね。

 

 

 

そうなんですよね。これに関しては、相対的な数で全てを収束してはいけないような気がしてならない。結果、致死率が低かった、死亡者が少なかった。だから政策は正しかった、と片付けるのではなくて。この最中で感じた大いなる疑問を見なかったことにしないためにも。文化ファクターを易々と切り捨てたことや、医療従事者への負担を予測できながら準備を怠っていたことも、必要か否かの議論も不十分に説明も曖昧に検査数をコントロールしていることも。理由もなく「外国人」と言うだけで、補償対象からこっそり外してみようとしたりするモラルの低さとか。結局冷静に事態そのものと向き合ったとは言い難い対応で、個別に対応することを怠り、全国を巻き込んだパフォーマンスのような対応に見えて、ため息しかでない。これは結果大丈夫だったから、よかったとは思えない。

 

痛いことをほじくり返すのは辛いので、大きな声でいうことはポジティブでなければいけない。そんなポジティブ思考至上主義の重圧を日本社会、特にSNSが発展してからなお、そう感じるわけですが。必要な議論と誹謗中傷は別であり、そもそも議論の場を公に設けるのが苦手すぎる日本社会のストレスがSNSでおかしな方向で爆発しているとも言える気がします。教育の過程で、その違いを考え、理解する機会を奪っている罪は想像以上です。私の中には対日本人的な日本人的人格があるという自覚があります。そんな二重人格のようなものを生み出す弱虫な自分を卒業して。ちゃんと。ちゃんと「やっぱり変だと思う」ということについて発言していきたいと思う次第なのです。

 

だから自分に対してもそうであろうと思います。

今まで、結果論でなぁなぁにしてきたことで自分が蓋をして見なかったことにしようとしていることが何なのか、そのくらいは向き合いたい。向き合ったところで、また蓋をしてしまうかもしれないし、人生そんなものだとむしろ開き直るかもしれない。結局はグレーにしておくことが、自分に限らず周りにも必要なことが多い可能性もあります。そうやって、大人になるにつれてグレーゾーンな許容範囲を広げてきました。でも言葉にしないと半永久的に自分のドッペルゲンガーを呼び起こし続いてしまう、そういうシチュエーションに付き合い続けるのかもしれない恐怖があります。何ていうか、自分の中のグレーゾーンを認識してみようと、そう思います。我慢しなくていいことは、発言し、解決するなり、決別するなり。

 

そう、今回の引っ越しのように。

結果論であろうとも、その過程で臭いものに蓋をしたことが原因ですから。