朝5時のビール。

この1年、本の書評を寄稿するという仕事をしています。

正式には謝礼のような形で、収入というものに相当しないような小さな金額を頂いていいるので仕事と言えるのか曖昧ですが、納税がややこしいので、むしろそうしてもらっているという感じです。私も日本語のライティング力の最低限の維持としてノンビリと手を動かしています。

 

さて、最近この書評の仕事でちょっと難しいなと思うことがあります。

 

基本的に臨床心理学と教育学関連の著書についての書評の依頼が多いのですが、こういうたぐいの有名日本人著者の本は結構難儀です。

 

英語でも読むので、日本人以外の著者の本と交互に依頼をいただくケースが多いのですが、同じ世代の著者でも根底にあるジェンダー感に大きな溝があることに最近気が付きました。日本人著者でも大抵が海外留学の経験者であったり、海外の著名大学の研究職を兼任しているのですが、大人になって仕事だけしに行っている人とどっぷり現地の社会でもまれるのとでは受ける影響の範囲に差があるのかもしれません。

 

けっこう頭を悩ませるのが、「女性は男性から解放されたのが現代」というそもそも元は女性は男性のテリトリーにあったものという前提を自身が持っていることに気が付いていない日本人著者が男女問わず多いことです。

 

教育学と臨床や脳科学の医療分野の両面から書かれた本に目を通すことが多いので、そこにはそういう視線の先で繰り広げられる父親像や母親像があるわけで。

解放された女性像がフェミニズムとする場合と、女性と男性という二項対立への批判では根本的な前後感が違うわけですが、女性は解放されて変わったという不思議な理論を母親像と結びつけているパターンに出くわすようになって、けっこう驚いています。

 

これは、困ったなという場面が多いです。

本自体の道すじ以前の話なので、そこを突っつくわけにもいかない。

でも根底にあるそういう概念を2022年の今、気が付かないで読み進める読者がどのくらいいるのだろうか…とも思う。もしくは私のミソジニーやフェミニズム、アイデンティティに関する視座が新しすぎるのだろうか。少なくとも一般比で批判的ではあると思うが、それが仕事でもあるので、なんともしがたい。ついでに言うと、だからこういう寄稿の仕事みたいなのを頂いているわけでもあると思いたい。

 

そんなわけで、現在も、このいやぁ~困ったなという本をあと100ページくらい読まなければならず…ビール片手な早朝です。

 

よく同世代のこちらの友人とも話すのですが、ヨーロッパの私たちのような文化圏の仕事場、つまりは大抵が大学院までアカデミックに何かしら勉強してきた人がマジョリティの場においても、50代くらいから上の世代はジェンダー感はマシでも結構差別的な人が多い。でももはやジェネレーションギャップに近いものとして、こちらも処理して、口は悪いが、そのうち引退していくのを待っている。そんな感じで受け流さないと日常が戦々恐々としてしまうので、そうしている、という友人が多い。私もその一人。

 

たとえば自分の父親なんかもそうだ。

彼と深く話すことは極力避けることにしているし、理解を求める気もない。

彼の生きてきた世界の延長線上にフェミニズムなぞ出現しようがないだろうし、なんならそういう変化している社会から彼自身が距離を取ってひっそりと彼の信じた価値観で人生が完結していくことが幸せだろうと思うので、私もそれを願っている。小津映画の美しさを違うものとして見ることに近いかもしれない。

 

ただ、本については結構、それが教育書であるがゆえに、深刻な問題で、私の父親のようにそういう世代だからと横によけても、これを正として若い子育てを担う誰かが読むだろうと思うと結構頭が痛い。

 

ただ、これが日本なんだろうなと思う。

私は常々、自分が子供を持つに向かない人間だと思う一番の理由がここにある気がする。子どもが生まれたとして、女の子だからとプリンセスに憧れてほしくないし、男だからと身体に規律を求めてほしくない。そういうどっちでもない理由で、パステルカラーが好きで、キラキラしたものに憧れて、身体をデザインしたいという欲求で自分の内側から出ることを理由に、自身を定義してほしい。

でもそんなこと、周りのお友達と共有できないようなことを子どもに提案したら、子どもの心が混乱するだろうとも思う。少なくとも、私が誰に言われたわけでもなくそういう疑問を胸に生きてきて、グループや学校生活に馴染めた試しがなかったのがいい例。表面的に繕うことをかなり幼い頃に習得して、うまく紛れ込めていただけだった。

 

そんなわけで、自分の視点が子育てにおいて正しいとは思わない。

だからこういう本で父親と母親の定義が社会的ジェンダーを根拠にすべて固定されていても、それが大抵の子どもにとって健全な社会適応能力をもたらすのだから…と早朝5時にビール片手に文を書いている。

 

頭をちょっと緩く鈍くしないと書いてられないし、読んでられない。

かといって、日本人著者の本は避けるというのも悲しいので…

 

この、違和感を共有できるのは500mlの君だけみたいだ。

 

 

ただ人として生きることが、こんなに簡単じゃないとは子供の頃は知らなかった。